葬式には友人が集まるが、ときには敵だって来る。何やら嬉しい気分になるらしい。
(ミシェル・ウエルベック、『地図と領土』)
初めて観に行ったラップ・バトルの大会(戦極MCBATTLE第10章。2014年10月19日)。バトルの前だったか合間だったかにライブをしていたOMSBがフロアの盛り上がりに不満だったらしく「葬式じゃねえんだよ」と言うと、後方から「葬式だよ、バーカ!」という殺気のある野次が飛んでピリついた。仕事柄こういうDQNを相手にするのは慣れているようでOMSBは「そんな悲しいこと言うなよ」と軽くいなしてから次の曲へと移った。ラップ・バトルの大会は何度か観に行ったけど、バトルとライブではヘッズの熱量が異なる。お前らバトルではあんなに盛り上がるのにライブはおとなしく見やがって。好きじゃねえのか? 自分の曲を披露するラッパーがフロアに向けてそういう不満を表明する場面を何度も見てきた。観客が楽しんでいること、披露されている音楽が好きであることを、沸くこと、盛り上がることで、ステージから見える形で表さないといけない。観客が静かに観ていたらそれは楽しんでいない、演者がやっている音楽を好きではない。ジャンルを問わず、こういった考え方は割と一般的である。実際、それがコンサートであれフットボールであれラップ・バトルであれ、ライヴ・エンターテインメントは観客も参加して一緒に作り上げるものである。観客の反応が演者のパフォーマンスに影響を与えることもある。特に先述のラップ・バトルやジャズなど即興性の高いジャンルにおいてはそれが顕著である。即興性の低いジャンルであったとしても、観客の反応が良ければ演者の気分が乗ってくるということはあるだろう。その点においてライヴ・エンターテインメントを現地で観るという行為は、映画を観るのとは決定的に異なる。映画を観客がどう観ようと映画の内容は絶対に変わらないからだ。ライブハウス、スタジアムなどの現地に何かを観に行く際には、与えられた興行をお客さんとして鑑賞するのではなく、その空間を構成する一員として参加しているという自覚を持ち、それを態度に表すのが重要である。だから私は日産スタジアムで横浜F・マリノスの試合前に『民衆の歌』を大きな声で歌う(バック・スタンドではほとんどの人が恥ずかしがって歌わない)。
盛り上がること。盛り上げること。それは一種のスキルである。目撃者(LiVS支持者)はその点において非常に優れている。それがアイドルであろうとバンドであろうと、それが初めて聴く曲であったとしても、対バン相手のノリを即座に理解し、フロアに溶け込むことが出来る。対バンへの参加の仕方として模範的である。他の出演者やファンに非常に良い印象を与えることだろう。目撃者の皆さんは本当にライブハウス(和製英語)慣れしている。ライブハウス(和製英語)で行われるタイプの興行における立ち振る舞いについては見習うべき点が多い。ただ、私はどうもそっちに染まり切れないというか、馴染み切れない部分がある。これは私が社交性の低い陰キャだからこういうひねくれたことを書いてしまうのだが、何にでも対応できる、どんなアイドルやバンドだろうと盛り上がれるんだったら、別にLiVSばかりを追いかける必要がないのでは? この集団に私たちが人生のリソース(お金、時間)を大量に突っ込んでいるのは、どうしてもLiVSじゃないといけない理由があるからじゃないのか? LiVSの音楽じゃないと、LiVSのメンバーじゃないといけないんじゃないのか? 私は先日の武蔵野音楽祭で某集団のライブをノリノリで盛り上げていた目撃者の皆さんの協調性とスキルに感心すると同時に少しがっかりした。あ、こんなのでよかったんだって。私はだいぶ昔、ゴスペラーズがアメリカに行くドキュメンタリーを観たことがある。現地のクラブに飛び込みでゲスト出演した際、なんか英語も喋れないジャップが来たよ笑という空気に包まれていた。歌い出しても来場者からまともに相手にしてもらえず、指笛まで吹かれていたような記憶がある。だが、歌が進んでいくにつれ、ゴスペラーズの実力を目の当たりにした観客。徐々に反応が変わっていき、最終的には盛大な歓声と拍手が生まれた。そこまでギスギスする必要はないかもしれないが、もう少し音楽とパフォーマンスのクオリティに対する厳しい目線があってもいいのではないだろうか? 最近、対バンを観る機会が多くなって、私の中にこの疑問が芽生えている。はっきり言って対バンに出てくるアイドルなんて玉石混淆(混合が誤用だと知った)である。玉と石は明確に区別して別のものとして扱わないといけない。もしステージにいるのが玉だろうが石だろうが関係なくフロアで動き回ってめちゃくちゃ楽しいのであればもはや音楽などほぼ関係なく、それは単に有酸素運動の爽快さではないだろうか? お酒を飲んでほろ酔いの状態でいつもの仲間たちとワイワイ騒ぐのが本質なのだとしたらそれは飲み会と変わらないのではないだろうか?(ちなみに、葬式のような静けさが是とされる現場もある。2023年に行ったハハノシキュウさんの独演会がそうだった。)
音楽や表現をしっかりと自分の目と耳で受け止めたいのか、それともフロアで盛り上がりたいのか。実際にはバランスの問題にはなってくるものの、この二つの価値観は根っこでは相容れない。フットボールで言うとバック・スタンドで試合を観たいのか、ゴール裏でみんなと応援歌を歌って飛び跳ねたいのかの違いに相当する。ゴール裏で試合を観ている人に聞いたことがあるのだが、試合はほとんど見えなくて、後からDAZNで観るらしい。ライブもコールを歌に被せたらその歌は聞けない。オタク同士で向き合ってミックスを打っていたらステージは見えない。冒頭に書いたOMSBのエピソード。葬式のようにおとなしかった観客は、OMSBの音楽が大好きで氏の音楽に聴き入っていたかもしれない。もしその代わりに地下アイドルのオタクが集団でおしかけ、曲もまともに聴かずにサークルをおっぱじめたりコールやミックスなどを打ち始めたとする。OMSBはそれで喜んでいただろうか? とにもかくにもフロアが“盛り上がっている”様子を見られればそれでご満悦なのだろうか?(案外そうなのかもしれないが…。)
今日はっきりと確信したこととして、私が求めること、大切にしていること、それは第一にクオリティ。そのクオリティに心酔して高揚することはあれど、騒ぎたいという欲求が先にあるわけではない。表現のパフォーマンス、音楽のレヴェル。それらが一定の基準を満たさなければお話にならない。ただフロアを盛り上げることだけを目的に作られたような曲でわちゃわちゃする気にはなれない。それだったら本当に上手な歌や演奏を黙って座って聴いていたほうがいい。今日の対バン相手の音楽は、私にははまらなかった。『ブラック・マシン・ミュージック』という米のディスコ・カルチャーに関する本を読んでいたら“I Gotta Big Dick”という曲とか、喘ぎ声を収録した曲とかが過去に流行ったと書いてあった。私が好きなJ Dillaの“Crushin' (Yeeeeaah!)”はI wanna fuck all nightを連呼している。MC松島は『ビッグちんちん』という曲をリリースしている。そもそもディスコ自体の出自がニュー・ヨークのゲイ・クラブであって、ダンスもゲイの性的な解放と結びついていたらしい。だから音楽に下ネタや性的な表現を取り入れることについてはまったく否定するつもりはない。単純に彼らの曲を聴いていいと思えなかっただけ。でも、特典会でマルコchanが私の目を見て彼らの曲名(男性器の名称を含む)を言ってくれた上に、その単語を何度も繰り返して言ってくれたのでそんなことはどうでもよくなった。