2024年12月27日金曜日

Hiromi's Sonicwonder JAPAN TOUR 2024 (2024-12-19)

前日にセブン・イレブン東池袋一丁目店で発券したチケット。五列という数字が私にもたらした高揚。一方、七日前に大宮ソニック・シティ大ホールで味わった煮え切らない時間。今日はどうなる。一抹の不安。そのせめぎ合い。すみだトリフォニー・ホール。最寄り駅は錦糸町。池袋からだと御茶ノ水乗り換え。御茶ノ水。近辺の駅に最近行っておいしかった店があった気がする。どこだっけ。マサラ・キングだったか? そうだ。平井駅。錦糸町から五分。一本。よし、そこにする。17時に平井駅。マサラ・キングに向かう商店街。途中にあるゴレル・シャッドというこれまたそっち系の店。ビリヤニはあるかと聞いたら首を横に振る店員氏(メニュウにはある)。コメはあると言って炊いていない状態のコメ数キロの袋を指さしてくる。今ビリヤニを食えないからって代わりに数キロ単位のコメを買わねえよ。そのまま直進。マサラ・キング。申し訳程度の店内飲食空間。二、三人で満員になる。運良く先客なし。マトン・ビリヤニ定食。カレーはマトンほうれん草を選択(+JPY100)。JPY1,540。大宮のときにギリギリになって焦った。今回は店を決め打ちしてテキパキ動いた。それでもゆっくり一息つくほどの余裕は生まれず。入場前に会場近くのコンヴィニエンス・ストアでホット・コーヒーを飲むのが精一杯。多くの人々が同じ方向にスマ・フォを向けて写真を撮っている。何だと思ったら東京スカイ・ツリー。

大宮ソニック・シティ大ホールが日産スタジアムだとすると、このすみだトリフォニー・ホールはニッパツ三ツ沢球技場。それくらい違う。縦にも横にもコンパクトなつくり。物理的、視覚的な近さはもちろんのこと、いかにも音響がよさそう。いま検索したら収容人数が1,801人。一方、大宮ソニック・シティ大ホールは2,505。その数字以上に差がある。でっけえ箱って感じだった大宮に対し、こっちは音楽を聴かせるための空間として作られている感じがする。中に入って肌で感じると分かる。場として全然違うのよ。ヴァイブスからして。それで席は5列目のほぼ中央と来た。こりゃどう転がってもドープな時間になるでしょ。そりゃさ、たしかにヘッズの老紳士率は高かったよ。ステージに目を向けると否が応にも無数の老紳士たちの禿げ散らかしたが後頭部、頭頂部が視界に入るわけ。異常事態。Hello! Projectのバースデー・イヴェントと見紛うばかり。裁判の傍聴でもしているかのような仏頂面や腕組みでほとんど無反応のまま時間を過ごす謎の紳士たちもたくさん。コレが西洋社会で流行しているというrawdoggingですか? よくそんな無反応でいられるね。観に来ている人たちの大半は感情を消失したのだろうか、それともうつ状態なのだろうかと思うことがある。でもそんなことはどうでもよくなるくらいの臨場感と緊張感がある会場と席だった。コレだよコレ。ライヴで音楽を味わうってのは。そりゃ上原ひろみさんがSonicwonderで表現する音楽を体感するにはライブハウス(和製英語)で立って観るのが一番。だってコレはもはやダンス・ミュージック。本来、座ったままで聴くのに適した音楽ではない。だが、着席での鑑賞をさほどハンディキャップと感じさせないほどに素晴らしい会場。なおかつステージと自分との間に4列しかないから目に入る他人が物理的に少ない分まわりが気にならなかったというのはあったと思う。ジャップの国民性に文句をつけながら自分も神経質で、他人を気にしている。しっかり陰気なジャップの自分がイヤになる。

先週の大宮が、結果的にはいいウォーミング・アップになった。あの公演でこのツアーにおける会場や観客の熱量に対する私の期待値が下がった。一回下げて、今回こうやって上げることでなおさらよく感じたのだと思う。感情ってのはそういうもんよ。落差。喜怒哀楽はすべてが一式になっているわけで。キレイな感情だけを取り出して、好ましくない感情を排除するってわけにはいかない。悲しみ、怒りがあるから楽しさ、喜びが際立つわけ。

ステージで表現される自由、遊び心、逸脱。解き放たれる情熱。その世界に客席から入り込むことで、普段の生活で使わずにどこかに眠っていたいくつもの感情が引っ張り出され、鷲掴みにされ、刺激され続ける感覚。お前にはこんな感情もあるんだぜ、もっとそれを表現していいんだぜ、俺たちはこうやって表現してるんだぜ、ってステージから上原さん率いる四人のメンバーさんたちが語りかけてくるような感覚。整体マッサージが凝り固まった身体をほぐしてくれるように、音を通した感情のマッサージ。ある種のセラピー。贅沢な時間。幸せだった。至福の時間に浸りながら、一方ではこうも思った。本当の意味で自分の感情を表現するためには、やる側に行かないといけないんじゃないだろうか? いくら一緒に作り上げる要素があると言っても観客は観客。受け手は受け手。限界がある。作る側、表現する側。向こう側からしか見えない世界は確実にある。生産することでしか得られない喜び。音楽にしてもフットボールにしても、観客が一緒に作り上げている。それは間違いない。それでも我々はお金を払って、チケットを買って、割り当てられた席で観るという立場なのであって、ステージ側、ピッチ側とのあいだに厳然たる壁がある。生活の安定のため、一定以上の収入を得るための立ち回りとしての職選びと、本当に何らかのやりたいことを見つけた結果としての職選び。前者が無価値で後者こそが尊いと言い切るほど私は若くはないしロマンティストでもない。前者に振り切った人生を送ってきた私は、後者に属する人たちが放つまばゆい光に嫉妬することがある。じゃあやってみろと言われそうだが、私には当然そんな選択をする度胸もなく、それ以前に自分がやりたいこととか、なりたい者という概念そのものがとっくのとうに分からなくなっている。夢や希望(そんなものがあればの話だが)を犠牲にして比較的、安定した賃金労働生活を手にし、これまで生き延びてきた。それでも生活のどこかで、自分のことを表現する時間が必要。その意味で、こうやって文章を書くことは私にとって大切なのだ。なんだかんだ、このブログを書き始めてもうすぐで十年になる。