2016年3月9日水曜日

環境

サッカーを観るのは好きなのだが、最近では趣味と公言できるかどうか微妙になっていた。スタジアムに観に行ったのはここ数年で数回だったし、それ以外だと年に数試合の地上波のTV中継を観る程度になっていたからだ。今までに蓄積した知識があるのでサッカーが好きな人と飲んだらそれなりに話せるのだが、最近の情勢には疎い。私にとってサッカーは、情熱をかけて追いかける対象ではなくなりつつあった。かつてサッカーが私の脳内で占めていた地位はハロプロとMCバトルに奪われている。だからドイツのハンブルクに1ヶ月半の出張が決まったとき、ブンデスリーガを観に行けるなと頭では思ったものの、そこまで心が躍らなかったのが正直なところだ。

ところが実際にハンブルガーSV対インゴルシュタットをVolkspark Stadionに観に行ったところ、心が踊り始めた。試合内容がどうという以前に、日頃はTVでしか観ることができない欧州サッカーの雰囲気に魅了された。試合後に観客が見せた反応がブーイング8割、拍手2割であったことが示すようにあまり芳しくない試合だった。でも、また来たいと思った。次のホーム・ゲームのヘルタ・ベルリン戦も観に行った。リーグ中位のハンブルガーが、3位のベルリンを内容でも結果(2-0)でも圧倒する爽快な試合だった。次のホッフェンハイム戦も観に行くことにした。最初はそこまで気乗りがしなかったブンデスリーガ観戦は、滞在中の最大の楽しみの一つになった。

ドイツ出張の楽しみといえば、朝食だ。この国でいくつかのホテルに泊まってきたが、どこでも朝食が最高だ。コーヒー、クロワッサン、果物、ハム…。一日という単位で見ると、朝ご飯(ご飯といっても米はないが)が最大の楽しみと言っていい。30分くらいかけて、ゆったりといただく。ふだん日本で朝食というと家でヨーグルトをさっと食べたりとか、会社の最寄り駅前のコンビニで肉まんを買って会社への道で歩きながら食べたりとかなので、だいぶ質に差がある。こちらに滞在している間は朝にしっかり食べる分、昼食は抜いて一日二食にした。

ハンブルクに来たことで急にサッカー好きになったわけではない。なぜ急にサッカーを観戦するのに熱心になったかというと、スタジアムが近くにあって行きやすいのと、それ以外に自分にとっての娯楽や気晴らしが少ないからだ。もちろん自分が十分に楽しめるほどこの街に習熟していないというのもあるだろうが、私にとっては東京の方が楽しい街だ。娯楽や気晴らしの少なさのおかげで、読書の意欲も取り戻しつつある。ドイツでは法律上、日曜日には飲食店などの一部の業種を除いてほとんどの店は閉まる。日曜日に何をするのかこちらの人に聞いたところ、家族と過ごしたり、スポーツをやったり、自然の中を歩いたりするとのことだった。私は単身の出張者でありこちらに根を張っているわけではないのでその過ごし方は真似しづらい。どうしても手持ちぶさたになる。何をやるかというと、本を読むしかなくなるのだ。

ハンブルクに来たことで突如として朝食の大切さに目覚めたわけではない。なぜ急に昼を抜くほど朝食を中心とした食生活に切り替えたかというと、ホテルで素晴らしい朝食が提供されるのと、会社がホテルから近く通勤に時間がかからないため朝の時間をゆっくり使えるからである。日本にいて毎朝コーヒー、クロワッサン、果物、スクランブルエッグを自分で用意して、時間を気にせずいただくのは無理な話だ。まずそんな手間がかけられないし、通勤に片道一時間半かかるので、朝は時間を気にしないといけないからだ。

つまりハンブルクに来て私の行動や生活習慣が変わったのは、環境が変わったからであって、自分の心境や考えが変わったからではない。他にも例を挙げると日本にいるときに比べてビールをよく飲むようになったが、これはこちらではビールが安くてそこら中に売っているからだ。急にビールが好きになったわけではない。レストランに入ると、値段がミネラル・ウォーターと大差ない。仮にハンブルクに何年も住むことになったとすると、確実に今よりもサッカーを観るのが好きになるだろう。ハロプロと日本語ラップのMCバトルの現場に行けない日々が続くと、そうならざるを得ない。数年間も住むとなるとホテル暮らしは考えられないので朝食の話は別にして、ビールは確実に今より好きになるだろう。しかしそれは環境が変わることで行動や生活が変わるのであって、逆ではない。

私が大学を出て働き始めてからの11年のうち、1年半は無職だった。その時期は、なぜ働いていなかったのだろうか? それは職がなかったからである。無から事業を立ち上げられるような奇特な人間を除けば、仕事場があるから通勤し、会社の中で役割があるからそれをこなし、同僚や顧客や取引先がいるからその人たちとのやり取りが発生するのである。無職は仕事場がないから通勤できないし、会社内の役割もないからそれをこなすことが出来ないし、同僚も顧客も取引先も存在しないからその人たちとのやり取りが出来ない。私は無職の時期だけ怠け者になったわけではないし、ある日を境に仕事に目覚めたわけではない。たまたま仕事を手に入れることが出来たから、再び働き手に戻ったのである。私という人間の中には怠け者もいるし、働き者もいる。ただ、仕事がなければ働き者になれないという、それだけの話である。もちろん、もし働く気がゼロであれば求職はまったくしなかっただろうし、職に復帰する話をいただいても逃げていただろう。しかし、仕事があってサボることは出来ても、仕事がなくて働くことは出来ないのである。

仕事をしていると、他の人を能力という視点から批評・比較する人が多い。私自身もその誘惑にかられるし、職務上、やらざるを得ない。しかし、実際にはその人の能力というよりは、環境と合うかどうか、それが成否を分ける最大の要素なのではないかと思う。前の会社で実績を出したとかで鳴り物入りで入ってきた中途採用者が泣かず飛ばずで結果を出せずクビになるのを何度も見てきた。何より私自身が、会社を変えることで評価が180度変わるのを経験してきた。今が調子いいとしても、それはたまたま自分がうまくはまれる環境にいるからであって、その環境が今後も続く保証はないと私は分かっている。もちろん、使えないという烙印を押された人を何が何でも定年まで雇い続けろと主張はしない。クビになった人の生活も、私は保障してあげることは出来ない。でも、たまたまある環境において優位に立っているだけで他人を高い位置から見下ろそうとするのは浅はかだと思うのだ。うまくいっている人も、いっていない人も、仕事がある人も、ない人も、たまたまこうなっている、運がよかった、もしくは悪かった。そう言うしかないと思っている。私は無職に仕事を与えてあげることは出来ないし、すべての無職に無差別に何かをしてあげることは出来ない。でもせめて、気の合う無職にはうまい飯をおごりたい。自分の中にも常に無職がいるからだ。