2022年1月30日日曜日

Equal-イコール- (2022-01-23)

※この舞台はDVDが出るらしいので(会場で先行予約を受け付けていた)、それをゲトる可能性のある紳士淑女は読まない方がいいかもしれない。何も知らずに観た方がいいと思う。

肺の病気を患っているニコラ。彼女と幼なじみの親友で、同居し看病にあたる勤務医のテオ。という始まり方をするのだが、実はニコラは5年前に死んでいる。ニコラであるはずの彼女は、テオ。ニコラを看病している間に同じ病気になってしまった。テオであるはずの彼女は、テオが錬金術と黒魔術を掛け合わせて作った自分の複製(ホムンクルス)。本当はニコラを複製したかったが、間に合わなかった。その代わりに自分の複製を作って、テオとしての人生を生きてもらう。自分はホムンクルスの前ではニコラになりきっている。自分と同じ人間がいることによるホムンクルス版テオの発狂を防ぐため、本物のテオを見たらニコラだと思い込むように記憶を書き換えている。テオが労働から帰宅する度に婦長の様子はどうだったか、何か言っていなかったかとしつこく確認するニコラ。それはテオとして生活するホムンクルスの彼女が周囲から違和感を持たれていないかを確認するため。ところが終盤にはホムンクルスだったはずのテオが、自分こそが本物のテオだと主張し始め、お互いどちらが本物でどちらがホムンクルスなのかが分からなくなる。最終的にはテオ同士で殺し合う。

前の記事で、(物語の中の)曜日ごとに役が入れ替わる意味が昨日は分からなかったと書いた。その疑問を頭に入れながら千秋楽を観ていたら、ちょっとした台詞で気が付いた。この物語におけるニコラとテオは姿形がまったく一緒なのだ。この物語が始まる前、本物のニコラが存命だった頃は別々の人間として同居していたが、今は違う。ホムンクルスのテオの頭の中では相手は自分とは違う見た目のニコラ。しかし実際には二人ともテオなのだ。二人がイコールであるのを表すために、田村芽実さんとめがねさんの役を次々に入れ替えていた。のだと私は解釈した。私は普段、舞台を観て物語や仕掛けについてそこまで考えることはない。この“Equal-イコール-”に関しては珍しく内容にのめり込んだ。自分が出来る範囲内で何とか理解をしないと気が済まなかった。初回で衝撃を受け、2回目で謎解きをしながら観て、3回目はおさらいをしながら残った疑問点を解消していった。毎回異なる見方、楽しみ方が出来た。3公演申し込んでよかった。全7公演を観たとしても楽しめたと思う。その価値はあった。演者さんはもちろん我々も緊張と集中を切らせない、強度の落ちない約2時間。本当に素晴らしいものを見せてもらった。田村芽実さん、めがねさん、末満健一さん、その他関係者の皆さんに大きな拍手を送りたい。というか実際に公演が終わる度に送った。

拍手と言えば、昨日の昼はカーテン・コール(繰り返すがカーテンはない。舞台の袖もなく、演者さんたちはステージ中央の穴から出入りする)が2回、夜が1回。この千秋楽は3回だった。3回ともなると私の二の腕が限界。きつい。筋トレが足りない。今日は2回目のカーテン・コールでめがねさんが田村さんに抱きついていた。お二人が抱擁する姿が、戦友という感じで、美しかった。余計な言葉がなくとも伝わってきた。このお二人は公演の度に燃え尽きるくらいすべてを出し尽くしている。この3公演ともそうだった。千秋楽でもポスト・パフォーマンス・トーク的なものはなかったが、不要だったし、仮に付け加えていたら野暮であっただろう。演技で語る。表現で語る。舞台で示す。このお二人はそれを体現していた。

君、神様なんて信じてるの?! 神様は君になんにもしてくれていないのに?! 的な台詞を田村芽実さんが発する場面がある。昨日はじめて聞いたときからやけに印象に残っている。神様の部分を他の言葉に置き換えてみる。会社、上司、コロナ対策、コロナ専門家、政府……。誰かに決めてもらう。何かを遵守する。信じる。従う。すがる。そんな対象を我々は常に求めている。

劇中でテオが使っているカバンがいいなと思った。つくりが頑丈で、そこそこモノが入って、皮の風合いがあって、手持ちで。ああいうカバンが欲しい。

2022年に入ってから上原ひろみさんをブルーノート東京の良席で2回観た。ハロ・コンを良席で観た。そして田村芽実さんを良席で3回観た。いずれも至高のエンターテインメントだった。去年は大変なことがたくさんあったけど、今年は幸先いい。単純にツイているし、その幸せを受け入れられるだけの精神的余裕が生まれている。この状態まで体調(精神)がよくなったのは喜ばしい。約半年通ったメンタル・クリニックにも行くのをやめた。今月はじめに行ったとき、今日で最後にしたいと私が言うと、先生は快く送り出してくれた。薬に頼らない治療をモットーとするクリニック。頭痛を緩和する漢方薬(五苓散)以外は薬を使わなかった。クリニックから出て外を歩くと、初めてココに来たときの苦しさ、つらさを思いだし、ここまで回復したことへの感慨が溢れ、胸がいっぱいになった。サテンで席に座ると、涙が溢れてきた。泉谷閑示さんの本に、うつの治療とは修理ではなく新しい自分に生まれ直すことだと書いてあった。私はその道をしっかりと踏みしめている。環境に苦しめられたら居場所を変えるのも手だし、実際に私はその機会を伺っている。しかしもっと根本的には自分自身を強くしないといけない。弱音を吐いて被害者で居続けても自分を守ることは出来ない。強く生きていく必要がある。そのために私は文字通り、物理的に強くなる。身体を鍛え、肌を焼く。ここ二ヶ月以上、コア・スクイーズを使った筋トレと、エアロフィットを使った呼吸筋トレーニングを毎日やっている。前に比べ身体は締まってきたし、いい色になってきた。私は外ではマスクを殆ど着けていない。所謂マスク警察に絡まれた経験は一度もないが、仮にそういうキチガイがいても気易く声をかけられない見た目を作り上げていく。

2022年1月29日土曜日

Equal-イコール- (2022-01-22)

これは偏見だがスマイレージ/アンジュルム時代のめいめいを推していたとTwitterで表明する奴の九割五分はただ田村さんの名前を出すことで通ぶりたい層。彼らはHello! Project退団後の田村さんのソロ活動を追っていない。“Sprout”も『無花果』も聴いていない。リリース・パーティもソロ・コンサートも舞台も観に行っていない。せいぜいYouTubeで『お祭りマンボ』のカヴァー動画を観てシェア・ボタンを押すのが関の山。もちろんそんなのは各人の勝手。ただ、Hello! Projectメンバーさんという肩書きが消えた瞬間から興味をなくしたくせに退団後の活躍が耳に入ると漏れも昔は好きだったと言い出すのはワックだと思う。実際にどれだけいるのかは分からない。だが、昔めいめいが好きで……(とっくにもっと年齢の低いHello! Projectメンバーさんに乗り換え済み。これをロリコン・ループと言うらしい)的なtweetを目にすると頭の中で勝手にその手合いだと決めつけてしまう。ほらよくいるじゃんそういうヤツ。金髪頭に高級シャツ(K DUB SHINE feat. 童子-T、『そういうヤツ』)。私は田村芽実さんのソロ活動一発目の舞台から観劇し、ファンクラブに入会し、その後も細々とではあるがソロ・コンサートや舞台に足を運んできた。田村さんの『ひめ・ごと』クラウド・ファンディングには五万円を出した。同舞台が劇場で開催されたときに良席に招待してもらえるのが返礼。一定期間(三年だったか?)以内に実行出来なかったら五千円だけ返してくれるということだったと記憶している。それはやめてほしい。三年(?)経って五千円返すより十年後でもいいから実現させてほしい。信じて待っている。私は口だけのフェイク野郎どもとは違い、お金を払い、現場に行く。

あなたには私が見えない敵と戦っているように見えるかもしれない。いや、実のところそういうヤツらは私の敵ではない。悪くは思っていない。漏れは前から田村芽実さん唾をつけていたんだゾ的な雰囲気を出しながら今の同氏の活動にお金と時間を払わず現場に顔を出さない人たちは私にとってありがたい存在だ。何せ彼らがそこにとどまっていてくれるおかげで私はいつも田村芽実さんの現場で良席をいただける。もし田村さんのファンクラブ会員数が今の何倍もいたら会場に入れさせてやるだけで感謝しろと言わんばかりの席が与えられることが多くなるだろう。フェイク野郎なんて言ってごめんね。むしろありがとう。『ひめ・ごと』プロジェクトにお金だけ出すタイプの人々が一番ありがたい。そういう紳士淑女たちは私にとってもパトロンに近い。日頃は田村さんのコンサートや舞台には申し込まないけど、彼女が困って助けを求めたらお金を出す。そのスタンスをこれからも続けてほしい。私が田村さんをステージに近い席で観続けられるように。

ファンクラブが私に割り当てた座席が、今日の昼がE列、夜がF列、明日の千秋楽がB列。B列って二列目だと思うじゃん。それがね、会場に入ってみたらA列がなくて、B列が一番前なの。千秋楽で最前という幸運。今日の席も昼は左ブロックの通路席(席は左右に6人ずつの配置)、夜は右ブロックの通路席の一つ右で、三回とも良席だった。しかも今日は昼は前と左が空席、左が空席で(チケットは完売していた)快適だった。特に昼は視界がよかった。席は狭く標準体型の女同士でも隣と隙間が出来ない窮屈さだった。この『Equal-イコール-』は公演期間が1月19日(水)から23日(日)の5日間、計7公演。私の場合、演劇を観ることではなく田村芽実さんを観るのが目的だから、出演者は少なければ少ないほどいい。田村さん濃度が高ければ高いほどいい。二人芝居ということで。出演者が十人、二十人の舞台は一回しか入る気にならないけど、二人となるとほぼ出ずっぱりだろうから、複数回入らない手はないなと。平日は労働的にちょっと厳しそうだったので土日の3公演をすべて申し込んだってワケ。そうしたら3回ともよさげな席が来て、心から楽しみにしていた。検索して貰えれば分かるけど今回の会場、新宿シアター・トップスはただでさえ小劇場。至極の体験があらかじめ約束されていた。

期待していた通りの、本当に贅沢な時間、空間だった。左側の机で椅子に座った田村芽実さんがノートブックに何かを書きながら咳き込む場面から始まるんだけど、まずこの距離で生めいめいを目に焼き付けられることに感激。そういえば生でお目にするのはいつ以来だろ。キリッとした表情になったときの美しさ。田村さんとめがねさんはマイカフォンなしの肉声。唾を飛ばし合いながら狭い舞台で感情をぶつけ合う。マッハ超えて飛べ俺の唾。ユー・ザ・ロックさんはそう叫んだけど(LAMP EYE、『証言』)、人間同士が本気でぶつかり合うというのはそういうことだと思う。田村さんが大声を出す際や吹き出す際、実際に何度も唾が見えた。もちろん劇中に田村さんとめがねさんはマスクも着けていないし社会的距離とやらもとっていない。今の日常生活よりよっぽど健全じゃねえか。このステージ上が。唾と言えばさ。コヴィッド騒ぎが始まってから飛沫という言葉が生活に定着してしまったけど、人間が喋るときに出る微量の唾をいちいち気にして感染するとかさせるとか神経質になることは相当に病的だ。最近、私はTyler Fischerさんというコメディアンの動画を観ている。彼はCDCのファウチのパロディ動画をいくつか出していて、そこでよくdropletsという単語を使う。飛沫という言葉の元はコレなんだろうな。ある動画では一人暮らしでも特にシャワー中にはマスクをしろ、排水溝を通じて飛沫が他人のトイレに届いて肛門を通じてコヴィッドが感染すると説き、別の動画では人を殺すときは距離を取れ、アメリカに死をと叫ぶときには声を小さくするかテキストや絵文字で済ませろ、人の首を切り落とす前にマスクをしないとその首からコヴィッドが拡散する等とタリバンに警告している。彼のYouTubeチャネルはコヴィッド騒ぎにおける一服の清涼剤。私はくりぃむしちゅーさんのANNのようなうんこちんこ番組も愛しているけど、根がインテリに出来てるから、こうやって権力に抗う知性的な笑いが本当のコメディなんだろうなと思ってしまう。

事前予習ゼロで軽い気持ちで観始めたら途中からかなりどぎつい内容になってきて、消耗した。錬金術、黒魔術、人間の複製、血を吸わせて記憶を移植するとか、トランプ・シリーズっぽさが随所に見られた。末満健一さんが作る劇は全部こういう感じなのだろうか? これを今日と明日であと二回も観ることに自分の精神が耐えられるのか、昼公演の直後は自信が持てないくらいだった。観るだけでここまで神経を擦り減らすのに田村さんとめがねさんのお二人は大丈夫なんだろうかと思った。それと同時に、こんな素晴らしい舞台をあと二回も観られるんだという喜びも噛みしめていた。いずれにせよ非常にインテンシティが高く、夜公演の前に頭を休めないといけなかった。会場近くのオスロ・カフェで10分間の瞑想をした。田村さんとめがねさんが持つエネルギーをすべて出し尽くしたような二人芝居。Monday, Tuesday…と曜日で区切られた、一週間分の物語。最初に咳き込んでいる田村芽実さんが肺の病気を患っているニコラ、めがねさんが彼女を看病する幼なじみの勤務医テオ。なんだけど、Tuesdayになると入れ替わっていて、田村さんがテオ、めがねさんがニコラになっている。Wednesdayになるとまた入れ替わって、と最終日までそれが続く。これが何を意味するのか、一回目では分からなかった。二回観ても分からなかった。三回目の千秋楽でようやく(たぶん)理解できたが、それは次の記事で書く。一回目で話の仕掛けがある程度は分かったので、二回目では見方がかなり変わった。それぞれのちょっとした仕草や台詞が、一回目とはまったく違った意味を持ってきた。これぞ観劇の愉悦。複数回の鑑賞に耐えるように作り込まれた劇だった。めがねさんのことは初めて拝見した。前から氏を支持している方々からすると失礼な言い方かもしれないが、田村芽実さんが二人芝居をやる相方として不足がなかった。がっぷり四つ。一歩も引かず渡り合っていたし、分かり合っていた。この二人が次々に入れ替わりながら演じるニコラとテオが、田村さんとめがねさんそれぞれの個性がはっきり見えながらも一つの人格として違和感なく統合されていく感じがして面白かった。

要所に笑いを入れて緊張と緩和の振り幅を作ることで観客の感情を動かすのではなく(多少クスッと出来るくらいの箇所はあるが、空気を和ませるほどではない)、ずっとシリアスで集中と緊張が続く。二人だけの出演者で、二時間近くその強度が落ちない。田村芽実さんとめがねさんの力量あってこそのスタイル。夜公演には観客に異常なオジサンが一人いた。彼はめいめいがえーっ??!と大声を出したとき、おーびっくりしたと小声で反射的に呟いていた。他にも何回か声を出していた。オナラもしていた気がする。彼はそんなに大きな音を出していたわけではないし、あまり悪く言いたくはない。だがこの小劇場で、なおかつ集中と緊張が続く劇においては、一人のちょっとした物音でも何かが微妙に崩れる。緊張の糸がほんの一瞬切れるというか。ヘッズとプレイヤーが素に戻ってしまうというか。それもあって、昼の方が若干よかった気がする。演者さんの出来がどうとかという批評的な意味ではなく、我々を含めた会場全体のヴァイブスが。100点と98点くらいの本当に些細な差だが。昼はカーテン・コール(といってもカーテンはなかったが)が二回、夜は一回だったのが象徴的だった。E列とF列からでもめいめいの唾が見えたように、舞台と客席が相当に近い。ニコラはよく咳き込んでいたし、最前付近のヘッズは演者さんたちの唾がかかっているんじゃないか。明日の千秋楽は最前でめいめいの唾を浴びるのが楽しみでならない。こうやって上原ひろみさんと田村芽実さんを短い期間に何度も観ることが出来ると、Hello! Projectがなくても生きていけるなと結構はっきり感じてしまう。この週末は名古屋でハロ・コンがあった。現地のイルなホーミーたちと再会したかったが、名古屋を捨ててこっちを選んだことに悔いがない。

2022年1月15日土曜日

"SAVE LIVE MUSIC 4" HIROMI SOLO "STANDARDS" (2022-01-11)

ブースターを接種した。コロナ・ヴァイラス用ヴァクスィーン。ではなく、このスタンダーズ公演のために用意されたオリジナル・カクテル。NEW YEAR BOOSTER。ジン、柚子、生姜、レモン、スパークリング・ワイン。運ばれてきたそれは二千円(JPY1,800+サービス料180=1,980)にしてはパッと見、ショボかったが、さすがに安居酒屋で提供される数百円の酒とは違う。癖のある香りのジン。オジサンのヘア・トニックのような。新しい香水を纏ったときのようなフレッシュな気分。命名し、試飲したという上原ひろみさんが、わたし調べでは……と前置きした上で、生姜は免疫を高めるので新年にコレを飲んで一年を健康に過ごしてほしいと言っていた。もっと安い(といってもいちばん安くて千円くらい)飲み物でケチらずにこのカクテルを注文して正解だった。公演の思い出の一部となるインパクトのある一杯だった。上原ひろみさんという間違いなく名実共に世界トップ級のピアニストの演奏を少人数で(座席表で数えたら75席だった)独占できる贅沢さを考えると入場料の約一万円と足しても安すぎるくらいだ。本来、上原さんの拠点は日本ではない。世界中を飛び回って各地でプレイするのが彼女のスタイル。客室乗務員よりも飛行機に乗る回数が多いと、たしか『上原ひろみ サマーレインの彼方』(神舘和典)に書いてあった。コロナ騒ぎで国を跨ぐ移動と公演が難しくなっているからこそ、日本で多くの公演をやってくださっている。年末年始、ブルーノート東京、怒濤の連続公演。コロナ騒ぎがもたらした奇跡。私の座席はE4-1。3列目。2日のクインテット公演のときのように超絶的な良席とはいかなかったが、アリーナ席なのでそれでも十分に近かった。何と言っても、登場、退場、アンコールを受けての再登場、再退場の四回、私の本当にすぐ左の通路を、係員に先導された上原ひろみさんが通った。距離20-30センチ。ハロ・コンの降臨よりも近い。ロープも張っていないし。

私は昨日(月曜日)が休みだったのだが、申し込みの時点で分かっていなかった。労働上、火曜日の方が都合がよさそうだったから今日の2セット目(20時半開演)を選んだ。もし昨日が休みだと分かっていたら昨日の公演を申し込んでいたと思う。この回に入ったのは運が良かった。我々がアンコールの手拍子をしていると場内に流れてくる、スター・ウォーズのあの音楽。予期せぬ展開。何だ何だという感じでキョロキョロする我々。スクリーンに出てきた文字を見て理解。コロナ騒ぎで危機に陥ったブルーノート東京そしてライヴ・ミュージック・シーンを存続させるために上原さんが立ち上げたSAVE LIVE MUSIC。一連の公演がこの回で100回目らしい。(つまりコロナ騒ぎになってから上原ひろみさんはブルーノート東京だけで100公演をやっている。)ブルーノート東京のスタッフに少なくとも100回は働く機会を与えられたとユーモアを交えつつ話す上原さん。ほぼすべての回に来ている人もいると上原さんが言うと、最前の老婦人がすぐ後ろの老紳士に振り返ってあなたのことよ的に目配せしていた。いやいや、という感じで老紳士は謙遜する仕草をしていた。オンラインで演奏をしたこともある。もちろん聴いている人々に伝えようとはしていたけど、オンラインでは拍手も聞こえない。ライヴで、こうやって皆さんの前で演奏をすることの大切さ。ライヴと生きるというのは同じliveという言葉。私にとってライヴとはまさに生きるということ。こうやって100回までやって来られたのは観に来てくださる皆さんのおかげ。的なことを話す上原さんは涙ぐんでいた。ライヴと生きることが同義であるという上原さんの言葉は沁みた。生きていることは死んでいないことではない。好きなこと、やりたいこと、自分にとって意味のあることをやっていてこそ生きていると言える。ブルーノート東京は本来、海外のアーティストがたくさん訪れる場所。彼らからブルーノート東京は今どうなっているのかとよく聞かれる。私のFacebook等(での活動報告)を見て、彼らはブルーノート東京が営業しているんだ、戻る場所があるんだと安心している。彼らがココに戻って来るその日が来るまで私はSAVE LIVE MUSICを続ける、と決意を表していた。

ジャズ・ピアノの快楽がすべて詰まったような、密度の高い幸せな時間だった。スタンダーズ公演に来てよかった。というのが、おそらくオリジナルズ公演(上原さんオリジナル曲の公演)と比べてもこちらの方がより伝統的なジャズの色が強いだろうから。表現の仕方がよく分からないけど、ベタなジャズらしさ。そうそうコレよコレという。それが凄く気持ちよかった。ずっとツボを突いてくる感じ。私はマスクの下で頬が緩みっぱなしだったし、感嘆しっぱなしだった。労働では決して動かさない顔の部位や筋肉を使っているのを実感した。つまんねえシケたことばっかりやっているとつまんねえシケた顔になっていく。それを防ぐためにも私はこうやってライヴ・エンターテインメントに足を運ぶ必要がある。私は音楽的素養に乏しいため原曲が分かったのがRed Hot Chili Peppersさんの“Under the Bridge”と、アンコール後の最後の曲“Lean on Me”だけだった。(その前の上原さんの談話を踏まえると“Lean on Me”はメッセージのある選曲だった。)元の曲の概念を一旦グチャグチャに壊してまた回収していく、その解体再構築、遊び心、技量、クリエイティヴィティ。魅了された。これは同じ人生なのだろうか? その疑問が公演中、私の頭を何度もよぎった。18時までの労働。クソみたいな会議。上司のキモ面。翻って20時半からのコンサート。落差が大きすぎる。18時まで我慢しながら働いていた自分と、20時半からブルーノート東京で上原ひろみさんのピアノ演奏に浸る自分。同じ人間とは思えない。今の私は夢の中にいる別の自分なのか? よく分からなくなってきた。上原ひろみさんの演奏に打ちのめされた後って、明日から自分も労働を頑張ろうという感じとは異なる。むしろ明日すぐに会社を辞めようかと少し考えてしまう。それくらいの、絶望に近い感覚を覚える。労働者、と上原さんを括っていいのか分からないが、一人の働き手としての自己実現、自己表現のレヴェルに差があり過ぎて。自分が日銭を稼ぐために従事しているクソ労働の無意味さがますます明確になってしまう。

2022年1月10日月曜日

LOVE & PEACE (2022-01-03)

上原ひろみさん率いるピアノ・クインテットを同氏から二、三メートルの距離で鑑賞した昨日に続き、今日も素晴らしい席に恵まれた。中野サンプラザ三列、ど真ん中。今冬のハロ・コンに私は三回、入る。今日の昼公演と、来月の仙台昼夜公演。本当は名古屋にも行きたかった。1月22日(土)、1月23日(日)。現地のイルなマイ・メンたちとも再会したかった。ところが田村芽実さんとめがねさんの二人芝居“Equal-イコール-”と日程が被ってしまい、見送った。コンサート以外の交流も含めると私には最重要だった名古屋の二日間を逃すことになるのは痛恨だったが、中野で三列をいただいたのはそれを補って余りある幸運だった。人生においてHello! Projectのコンサートを近距離で観ることよりも大事なことはそう多くない。仮に十万円、二十万円でチケットを譲ってくれと打診されたとしても(実際にはそこまでの高値にはならないだろうが)売らなかったと思う。良席を何枚も持っていたら一、二枚を売る気にもなろうが(そもそも転売は厳しく取り締まられているので軽い気持ちでやれることではない。あくまで仮定の話)、運でたぐり寄せたなけなしの良席、意地でも譲り渡すことはできない。この経験は銀行口座の数字以上に意味がある。失業や老後に備えてお金を貯めるのが人生の目的ではないので。いつダンプ・トラックにひかれてすべてが終わるかは分からないので。

三列で双眼鏡を使うことには躊躇があった。かなりキモいと自覚はしていた。ただ私の双眼鏡は倍率が6倍しかない。だからそこまでキモくないかもしれない。10倍や12倍をあの位置で構えていたらさすがにキモいと言われても仕方がない。私の場合は6倍だから。目の悪い人がモノを見るときに眼鏡を使う。その延長線上。そもそも仮に前方で双眼鏡を使うのがキモいとして、それを自重したところで得られるものはない。キモさを最小限にした鑑賞方法を続けていればメンバーさんとエッチさせてもらえるわけではない。何のために私はココにいるのか? 端的に言うと、女を観るためだ。若くて可愛い女を観るためだ。同じ観るなら拡大して観た方がいいに決まっている。このために、私は安くないお金を払ってココに来ている。相手どうこうではない。自分たちのスタイルに自信を持つ。自分たちのフットボールを貫く。勇猛果敢。アタッキング・フットボール。とは言いつつ私もジャップなので周りの目を意識し多少は遠慮した。双眼鏡を下げ音楽に身体を揺らし手拍子をし“ちゃんと”コンサートを観ているんだぞって見せるのも忘れなかった。小野瑞歩さんがステージにいるときは双眼鏡を使わないように気を付けた。小野さんだけにはキモがられたくないので。
金払ってんならば払っただけ 遊んでかなきゃお前の負け(ZEEBRA、“Parteechecka”)
昨日の上原ひろみさんピアノ・クインテットの衝撃が頭から抜けない。あれを見せつけられた後では、音楽のためにハロ・コンに行くなんていうのは詭弁だ。クオリティの差から目を逸らすことが出来ない。もちろんジャンルも何もかもが違う。単純な比較は出来ない。それは重々承知。だが、あらゆる比較を廃するのもそれはそれで無理がある。別物だから、だけでは済まされない。今更こんなことを言うのは野暮だが、生演奏ではないというのは音楽のショーとして圧倒的なハンディキャップ。演奏は生ではないが、ハロ・コンの歌は生。しかし上原ひろみさんたちの生演奏とHello! Projectメンバーさんたちの生歌は音楽として同列に並べるようなものではない。公演中、この疑問が拭えなかった:昨日観たピアノ・クインテットは紛れもなく本物の音楽だった。だとするといま目の前で繰り広げられているこのコンサートは何なのだろうか? コレはコレで楽しいけど、単に同じ音楽という言葉で括ってしまうにはあまりにも違う。これを書いている時点でも自分の中で結論が出ていない。ひとつ言えるのは、ブルーノート東京の余韻を残しながら観ることで、ハロ・コンに何を求めるべきなのかが私の中でくっきりと浮かび上がった。答えはそう、女、女、女(Jayz, “Girls, Girls, Girls”)。歌唱、ダンス、衣装、曲、その他コンサートを構成するあらゆる要素が、メンバーさんたちの魅力を味わい尽くすための媒体。顔、声、表情、身体。メンバーさんに出来ないインサート。その代わりにあるコンサート。モーニング娘。トゥー・トゥーさんは北川莉央さんと牧野真莉愛さんが群を抜いて性的だった。さすがグラヴュアで鍛えられているだけある。石田亜由美さんの脚も白くもっちりしたふとももの質感がかなり性的だった。アンジュルムさんは川村文乃さんのピッタリしたロング・パンツのお尻が性的だった。新加入の平山遊季さんが既に性的なヴァイブスを身につけており、為永幸音さん、川名稟さんと共に同集団の性を担っていく若手として頼もしかった。(番外編:開演しメンバーさんが登壇すると丸出しにされたふとももが目が行ったが視線を上げると竹内朱莉さんで騙されたがそれを分かった上でも何度か見てしまい、情けなかった。)BEYOOOOONDSさんは二着目の衣装が観測者に射精を余儀なくさせるほどに性的だった(披露する時間が短かったのが惜しまれる)。西田汐里さん、山﨑夢羽さん、一岡伶奈さんは性の悦びを隠し切れていなかった。Juice=Juiceさんは基本的に皆さん性的だったがやはり植村あかりさん、あと工藤由愛さん。段原瑠々さんも身体に密着したロング・パンツの脚とお尻が見事だった。

こんな良席でハロ・コンを観たら打ちのめされ公演直後は恍惚状態になるのが正常な反応だろう。平時のハロ・コンに八割五分〜九割近づいた内容で、満足度は高かった。それでも終演後、高架下でいつものディーラーからアンオフィのS73、S21(小野瑞歩さん)をゲトって中野駅の改札に向かう私は平常心だった。私はもうHello! Project全体の信者ではないのだと実感した。以前の私はHello! Projectをひとつの音楽ジャンルとして熱心に追っていた。他にはない独自の音楽世界があると思っていた。今はこの団体の音楽にそういう価値を見出せていない。個々に見ればいい曲はあるが、全体としては色が薄れ、よくも悪くも普通になってきていると感じる。“普通に”いい音楽は他にいくらでもある。月980円で多種多様なグッド・ミュージックがいくらでもSpotifyに流れてくる中、ディスクを取り込んでiPhoneに入れる一手間をかけてまでHello! Projectを聴く意味はどんどん薄れている。YouTubeでヴィデオ・クリップをフルで観られるし。私が今でも強く支持するつばきファクトリーさん以外はYouTubeで一、二回観て、コンサートで二、三回でも観れば十分かなって思う。よっぽど面白い曲でもないかぎり。

2022年1月4日火曜日

"SAVE LIVE MUSIC 4" HIROMI THE PIANO QUINTET "BACK at the CLUB" (2022-01-02)

自分の家だからいつでも帰っておいで。そう言って母親はLINEで年末年始の帰省を促してきた。私が無職だった8年前、実家に数日間居候していただけで嫌悪感を示し、いつまでいるんだと遠回しに言ってきたのがその母親なのを私は忘れていない。いま歓迎されても、醒めた対応をする気にしかならない。正月の義務として最低限の時間しか滞在するつもりはない。もう居心地はよくない。実家に行く度に辟易とするのが、常にテレビがついていること。頭が腐りそうだ。決して広くはないリヴィング・ルームに鎮座する、最近買い替えたという55インチの有機ELディスプレイ。画室はやたらキレイ。毎日コレにかじり付いてオミクロン(笑)だの後遺症だのの情報もバッチリの両親(父親はまだ働いているのでそこまでテレビ漬けではないのかもしれないが、間違いなくこの宗教の影響下にある)。彼らの行動範囲は限られている。家、ショッピング・モール、会社。歩く能力も低下している。最近、座骨神経痛になったと母は言っていた。彼らは主にテレビを通してこの世界を認識している。オミクロン(笑)に神経を尖らせ、アメリカの感染者数まで気にかける一方、肺炎球菌の存在は無視して赤ん坊と触れ合う。家の中ではマスクなしで過ごし、車の中ではマスクを着ける。滑稽さに気付いていない。疑問を抱く様子もない。彼らがお年寄りと呼ばれる年齢まで生きてたどり着いた知能の水準がコレなのか。愕然とする。彼らと私は別の世界に住んでいる。(父方の祖母も晩年にテレビを大画面に新調し、死ぬ前に大きいテレビが欲しかったと言い、幸せそうにこたつからテレビを観る晩年を過ごしていた。)

両親宅で行われていた弟一家との新年会を早退し、私が向かったのは表参道。1月1日から上原ひろみさんが公演をやっているブルーノート東京。今日は彼女が率いるピアノ・クインテットの公演を観に行く。私は上原ひろみさんの公演に入るためだけにブルーノート東京の有料会員になっている。数千人を収容するいわゆるホール会場ならともかく、ブルーノート東京の収容力でこの世界的なピアニストの公演チケットを取るのは普通では難しい。抽選ではなく先着順なので、先行購入権が与えられる有料会員ではないと確保するのは極めて困難。事実上、一般人に門戸は開かれていない。(去年はまだ有料会員ではなかった。あのときなぜ席が取れたのか、不明である。)上原ひろみさんは年末年始にかけてブルーノート東京で三種類の演目をパフォームする。ソロのオリジナルズ、クインテット、ソロのスタンダーズ。チケットの受付はこの順番で、日付をずらして行われた。私は当初、ソロの二演目を狙っていた。クインテットはパスしようと考えていた。ところがソロの申し込みの日、11時半から昼食を摂ったら12時からの申し込み開始を完全に忘れ、二時間後に思い出してホームページを開いたら既に完売していた。それでクインテットを申し込む運びとなった。チケットを購入してからお昼を食べるという革新的なソリューションの導入が攻を奏した。スタンダーズ公演は申し込みページを開いたコンピュータの目の前でお昼ご飯を食べることで12時からの申し込みを無事に遂行した。

結果的には怪我の功名。クインテット公演に入ったのは正解だった。上原ひろみさんと四人のストリングス奏者から成るチームのアルバムを、私は2021年に一番多く聴いたからだ。前に同じ会場で観たときはまだアルバムが発売されていなかった。ある程度、聴き込んだ上でもう一度、生で聴くと、この作品をいっそう深く味わうことが出来た。この音はこの奏者さんが出していたんだとか、こうやって目配せして他の奏者さんたちが合流しているんだとか、発見の連続だった。目の前で演奏されている音と、アルバムを聴いて頭に入っていた音とを自ずと対比させながら聴いた。即興の部分がクッキリと浮かび上がってくる。ジャズに同じ演奏は二度とない。上原ひろみさんがいつも公演の冒頭に言うように、この場、この公演かぎりの特別な音。私は公演中、そう来るのか、すげー、と感嘆しっぱなしで、マスクの下で満面の笑みを浮かべていた。楽しんでいるのを表情では伝えられないけど、それでもステージの皆さんに我々の熱は伝わったと思う。後半に進むにつれ会場に一体感が出てきた。即興の見せ場で乗ってきて何かが憑依したように鍵盤と向き合い自分を表現する上原ひろみさん。ピアノと一体になっている。クリエイティブという概念そのもの。本当に目前と言って差し支えない距離だった。ピアノから3メートルくらいだったかな。アリーナ席。11-1。二列目。上原さんの表情や手先の動きがちょうど一番見やすい横位置。三番目にいい席だったと思う。一番、二番は私の前の二席。遊び心といたずらっぽさが混じったようなお顔でこちらを見る上原ひろみさんと、何度も目が合った。

勝てばリーグ優勝という状況で横浜F・マリノスがアルビレックス新潟さんに0-2で負け、優勝を逃した2013年のJ1リーグ第33節。中村俊輔さんがこのときを振り返り、日産スタジアムを埋めた記録的な大観衆の見物気分が伝わってきて選手側も変な空気になりやりづらかったという旨のことを言ったのは有名な話だ。中村さん級の選手だから許されるギリギリの発言だとは思うが、興行における観客、ファンの役割は単なる傍観者とは違う。現地で、生で観るということには一定の責務がつきまとう。画面の前で観るのとは違う。もちろんフットボール観戦者が俺らも一緒に戦っているなんて息巻いても腹の出た運動不足のオジサンが何を言っているんだよという感じだが、フットボールの観客が空間を一緒になって作り上げているのは紛れもない真実である。ただお金を払って他人同士が競っているのを観に来ているだけというのもひとつの真実だが、それだけでは片付けられない面も確実にある。音楽も一緒。特にジャズのように即興要素の強い音楽では。楽しんでいることを身体で示す。いい雰囲気を作り上げる。演者さんたちを乗せる。特に私がいたアリーナ席は誰よりも率先して拍手、手拍子をしないといけない。フットボールで言うところのゴール裏のようなもの。今日はそれがうまくいった感触があり、とても気持がよかった。私が観たのは二公演あるうちの一回目。15時開場、16時開演。興行においては昼公演は夜公演に向けたウォーミング・アップ的な部分があるのがあるあるだが、それを微塵も感じさせない昼公演だった。もちろん、私が入らなかった夜公演がもっと熱かった可能性もあるが、それが気にならないくらい激熱で激ヤバな音楽の時間だった。一度限りの、唯一無二の音楽を体験したんだという満足感。二回回しの一回目だというのを感じさせない。流石プロ。

アルバムの題名である“Silver Lining Suite”のシルバー・ライニングとは、雲の切れ間から差す光。コロナ騒ぎが与えた苦しみの、その先に見える希望を表している。アルバムの核を為すのが何と言っても同名の壮大な組曲。ストリーミングや円盤では四つのトラックに分割されているが、一つの曲として通して聴くものであると理解するのが大切。間に小休止を挟まず、一続きにパフォームされることでいっそうこの組曲の世界に引き込まれる。客も分かっていて、途中で曲が終わったと思い拍手を入れる無粋者は一人もいない。これはさっきの話に繋がるけど、仮に分かっていない輩がいてするべきではないタイミングで拍手をしてしまったら曲をぶち壊してしまうんだ。この組曲が、今日の公演でも間違いなく最大のハイライトだった。曲自体は聴き込んでいるのに、アルバム発売前に初めて聴いたときのような、新鮮な気持ちでまた感銘を受けた。(これを読んでいるマイメンでこの期に及んで“Silver Lining Suite”を聴いていない奴はまさかいないよな?)アルバム以外だと、“Moonlight Sunshine”という曲を、上原ひろみさんと西江辰郎さんとのデュオで(途中からビルマン聡平さん、中恵菜さん、向井航さんも合流)。クインテット公演は計8公演あるため、最初のデュオ・パートは各ストリングス奏者さんに二回ずつ当たるようにしてある。どの公演で誰がやるかはあみだくじで決めたという。くじと言えば、おみくじガレットというケーキを注文すると、抽選でワインが当たるという。運試しに頼んでみた。おみくじを開けると上原ひろみさんの字でこう書いてあった:お気に入りのラーメン屋さんがみつかるでしょう!(ワインの場合は大当たりと書いてあるらしい。)ガレットはピスタチオが入っていてとてもおいしかった。おみくじガレットJPY1,700+ハーブティー(ノスタルジー・ブレンド)JPY1,000+奉仕料10%=JPY2,970。参考価格:サイゼリヤさんの平日ランチJPY500、グラス・ワインJPY100。