2020年6月16日火曜日

こういう時期

田村芽実さんでさえ“頑張るぞ、本気で頑張るぞ!と意気込んだ時間は短く”、“こんなにダラダラした日々は過去にあったか。というくらいダラダラした日々を送っ”たという(田村芽実 公式ブログ - みなさま)。私のような凡人が何かを成し遂げられなかったのは無理もない(もっとも彼女と私ではダラダラの尺度が一緒ではないだろうが)。せっかくの自由な時間を生産的に使えたとは言いがたい。私にはいくつかやりたいと思っていたことがあった。料理を作れるようになりたかった。毎食、外食ばかりでは飽きるだろうし、経済的にも賢明ではない。私はミート・ソースだけは上手に作ることが出来るが、それ以外のレパートリーとなると目玉焼きとスクランブル・エッグくらいだった。所持しているウー・ウェンさんの料理本からいくつかの料理を習得したかった。結果、作れるようになったのは鳥もも肉の肉じゃが。ただ一つだけ。(ちなみに肉じゃがの発祥地については広島の呉と京都府舞鶴市で50年くらい争っている。肉じゃがと呼ばれ出したのは戦後で、当初は甘煮だった。出典は2019年12月10日放送『三宅祐司のふるさと探訪』。)気温が上がってきた時期(5月11日)にミート・ソースを作っている最中、ゴキブリが現れ、自炊の意欲が大幅に削がれた。今では家で食べるときは魚の水煮缶とメステマッハーさんのライ麦パンあたりで適当に済ませている。パンにはローヤル・ゼリーを塗る。あと炭酸水。それでいいんだよ、もう…。栄養的に悪くない食材で腹をまあまあ満たせれば。あとは本を大量に読むつもりだった。理論上は十分に可能なはずだった。日によってはたしかに一日三、四時間読んでいたが、最近では一日一時間くらいしか読まなくなっている。普通に仕事をしているときと変わらない。四月から読み終えてきた本はこんな感じだ(括弧内の日付は読了日):

  • 藤井雅彦、『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』(4月3日)
  • Charles Bukowski, “Women”(4月15日)
  • 村上陽一郎、『ペスト大流行』(4月19日)
  • 小松左京、『復活の日』(4月26日)
  • スティーヴン・ジョンソン、『感染地図』(5月3日)
  • Richard Preston, “The Hot Zone”(5月9日)
  • 朝倉かすみ、『てらさふ』(5月13日)
  • 西村繁男、『さらば、わが青春の「少年ジャンプ」』(5月15日)
  • 斎藤糧三、『病気を遠ざける! 1日1回日光浴』(5月16日)
  • Walter Dean Myers, “145th Steet: Short Stories”(5月19日)
  • Jarrett Kobek, “The Future Won't Be Long”(5月24日)
  • 『まんが凶悪犯罪者の驚愕半生』(6月2日)
  • Douglas Murray, “The Strange Death of Europe”(6月7日)

今はミシェル・ウエルベックさんの『素粒子』を読んでいる。こうやって振り返ると、まとまった時間を取って向き合わないと歯が立たない本に一つも挑んでいない。(半分読んで数ヶ月放置していた“The Future Won't Be Long”を読み切れたのだけは潤沢な自由時間の恩恵だったと思う。)中学数学を学ぶと決めたが、二週間ほど前に『増補改訂版 語りかける中学数学』を入手して以来まだ手を着けられていない。仕事に使える本はいっさい読んでいない。部屋の片付けは頓挫している。当ブログも二回しか更新していない。

こういう時期ですから…というのは便利な言い方だ。天気の話のように波風を立てない。相手と同じ立場にいる感じを出せる。実際には天気と違い、期間や中身は人為的に設定されている。また、人によって内容が異なる。私にとっては、生きる糧だった明治安田生命J1リーグ、Hello! Project、田村芽実さん等々の活動が中止・中断し、会社からは在宅勤務が認められ、50%の休業により収入を減らされ、その代わりに自由時間が増え、あまり外出をするなと社会的に圧力をかけられている、四月はじめから今日に至るまでの時期が“こういう時期”である。俗に“自粛期間”と呼ばれる奇妙な日々。自粛という単語のアクロバティックな用法。自粛 意味で検索すると、自分から進んで、行いや態度を慎むこととネット上の辞書には書いてある。この定義は私の感覚とも一致する。でも多くの人々が疑問を持つ様子もなく、禁止令のような意味にすげ替えている。“自粛期間”にも関わらず山に登ったとか、“自粛を破る”奴はけしからんとか。“自粛警察”と呼ばれる気味の悪すぎる老人たちまで一部で発生した(私は彼らを実際に目撃した訳じゃないが、おそらく実在するんだろう。第二次世界大戦中はそれが優等生の行動様式だったんだろう)。世を覆う“自粛”に私は、会社員に求められる“自主性”に近い気持ち悪さを感じる。本当に自分で考えて決めるというよりは、みなまで言わんでも会社(上司)の望むように動けやってこと。会社とかスポーツ・チームのように同じ目的を共有する機能集団であればそれでいいのかもしれない。合わない人は他に転職・移籍することが出来るから。国民という共同体で法律や命令ではなく“自粛”や“自主性”に頼ろうとしてもそう一枚岩になるものではない。構成員同士の監視、密告、暴力が生まれる。アメリカでは連邦政府の権限を制限した結果、自警団が発達し、リンチが生まれた(鈴木透、『性と暴力のアメリカ』)。

結局のところ“自粛期間”は終わったのか、そうではないのか。ちょっと曖昧だ。日本政府による緊急事態宣言の解除に伴い“自粛期間”が終わったような雰囲気になっているが、“自粛”の定義が完全に明確ではない上に(休業した店もあれば“自粛営業”と称して営業時間を少しだけ短縮した店も多数ある)、法律で期間が定められている訳でもないので、何となくなし崩しで少しずつ元に戻っていくのだろう。完全に元通りにはなるには年単位の時間がかかるのかもしれないが。結局のところ、私を含めて日本人の大多数は何となく空気に従っているだけ。山本七平さんが『「空気」の研究』で書いた通り。日本教。上述の“自粛警察”もそうなんだけど、戦争になったときもこういう感じなんだろうな、と思うことがこのCOVID-19を巡るパニックでは多々あった。率先してステイ・ホームを呼びかけ社会を息苦しくさせた出しゃばりな有名人たちは、戦時中には自国民向けのプロパガンダに喜んで協力するだろう。スポーツ選手はそのスポーツが上手であるという以上でも以下でもないのに、媒体を通し、国民のリーダー面をして我々に指図する(もちろん一部の選手だが)。受け手もそういった言葉に影響を受けてしまう。人間はある分野で能力が高い人は別の分野の能力も高いに違いないと錯覚する。ハロー効果(ふろむだ、『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』)。その点、爆笑問題さんの太田光さんの発言は地に足が着いていて好感を持った。彼が出演するラジオ番組、爆笑問題カーボーイを聴いてほしい。YouTubeにたくさん違法アップロードされている。(ある回で田中裕二さんが、お子さんがソーセージが大好きだという話をしたところ、じゃあ将来フェラチオ大好きになるねと太田光さんは言ってケラケラ笑っていた。五十代になってもこれでいいんだ、と私は感銘を受けた。自分の人生に少し光が差したような気がして、何だか楽になった。)

私にとっては本日をもって“こういう時期”に一区切りがつく。50%の休業が今日で最後だからだ。(こうやって文を書こうと思い立ったのもそれが大きな理由。)在宅勤務はもう少し続けそうだが、7月からは段階的に出社することになるだろう。今後も100%在宅だけでやっていくのは無理にしても、せめて週に一、二回だけでも続けられたらいいなあと思っている。仕事に取りかかる少し前まで寝ていられる気楽さ。掃除、洗濯、宅配便の受け取りが出来る便利さ。オフィス環境がクソだから尚更。

胸を張ってコレをやりましたと言えることがない。無為と言ってもいい日々だった。現時点で後悔はしていない。これでよかったのか悪かったのかは後にならないと判断できない。無職期間がその後においても私の糧になったように、一見、無意味で無価値な時間が、長い目で見たら役に立つこともある。マルコムXさんが収監中に数多くの本を読んで思想を先鋭化させたように、私も生き甲斐(サッカーの試合とコンサート)を奪われむやみな外出をするなという圧力をかけられたソフトな牢獄で悶々としながら感じたこと、考えたことが今後の人生で活きてくるはずだと信じている。でも、あれだ。Twitterは例外だ。少しやる分にはいい。でも人生の貴重な時間の浪費と紙一重。5月24日からiPhoneでTwitterアプリの使用時間を一日一時間半までに制限したが、まだデスク・トップで見るという抜け道がある。SNSは利用者を短期的な報酬に反応する動物にする。流れてくる短文にふぁぼやRTをポチポチ押すだけの猿。まとまった文章を作る時間、意欲、集中力を削ぐ。ナカムラ・クリニックの中村先生もTwitterを始めてから4月14日を最後にブログ(今はnoteに移行)を更新しなくなった。悲しい。目まぐるしく入れ替わっていく流行りの話題に反応(画面に表示されるボタンを押すか、せいぜい140文字以内の感想を述べるだけ)して何かをやった気になるのは簡単だ。それよりも大事なのは本を読むこと。判断することではなく、理解すること。
人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。(ミラン・クンデラ、『小説の技法』)
Twitterでは、自分の意見に価値があると思っている人が多すぎる。ほとんどの場合、あなたの意見に価値はない。人が意見で救われることはほとんどない。意見が影響力を持つにはそれ相応の専門知識か立場が必要だ。その題材についてロクに学んだこともない人がスマート・フォンでお気軽に表明する意見に何の意味があるのか。Twitterで何かの社会問題に感心を抱いたのであれば、その事柄に関する本を読むべきなのだ。Twitterは何かをちゃんと勉強するきっかけとしては最適である。