2024年8月18日日曜日

THE LIVE (2024-07-28)

数年単位で見ると、アイドル全般に対する関心の低下。数ヶ月単位で見ると、雨季と夏の疲れ。活動意欲を削ぐ、異常な蒸し暑さ。さすがに常軌を逸している。休日の午前中に出かけると、昼には汗だく、たまらず帰宅、シャワーを浴び、着替え、空調を効かせた部屋でしばらく横になるのが通例となっている。この気候は何かをするのに向いていない。すべてに向いていない。飯倉大樹さんも先日の町田ゼルビアとの試合後にこう言っていた。「まず暑かったな。こんななかでサッカーやっちゃダメだよ。質落ちるだろ、どう見ても。日本の夏はサッカーしちゃいけない。夜やってんのにこんなにきついんだから、子どもたちとかやばいよな」。私には盆休みもなく、微塵も落ちない労働の強度。それどころか増やされていく負荷。去年のような酷い夏バテにはなっていない。それでも滅入っている。ストレスを感じやすい。気分的なしんどさがある。休日を活動的に過ごすのに必要な気力がない。月曜になると会社の同僚たちとクソを製造してお互いに投げ合いなすり付け合う日々が再開するかと思うとゲンナリする。月曜日にOutlookを開いてモリモリとメールが入ってくるあのおぞましい光景。クソの製造工場が土日で溜まっていたクソを一気に排出しているように私には見える。私は“Bullsh*t Jobs”を読み始めたばかりだが、自分の仕事がブルシット・ジョブである自信がある。
Hell is a collection of individuals who are spending the bulk of their time workig on a task they don't like and are especially not good at(地獄とは自分が好きではなく特にうまく出来るわけでもない任務に時間の大部分を費やしている個人の集まりである)(David Graeber, “Bullsh*t Jobs”)

明日、ヘッド・スパに行くことにした。新規開拓する気満々で1時間ほどお店を調べたが、結局は前に通っていた店に予約を入れた。(最後に行ったのがちょうど去年のこの時期だった。)なんだかんだでココよりも良さげなお店が見つからない。私が同じ飲食店に通い同じモノを食いがちなのもコレに似ている。過去に色々と試して比較した結果としてたどり着いた答えなんだ。また一から考え直しても同じ答えになる可能性は高い。であれば、過去の私が出した答えを再利用したほうが、店を選ぶ時間と手間が省ける。ハズレを引くリスクも回避できる。答えが分かっているんだからそれにすりゃいいじゃんという考え。飲食店をはじめ人生のさまざまな選択において安心安定のオキニをいくつか作って巡回するのは理にかなっている。ただ同じことをやり続けるのは効率がよい反面、精神衛生上はよくない。泉谷閑示さんの著作に書いてあったが、メンタル不調の人は同じことしかしない傾向があるらしい。それは私も実感として分かる。同じモノだけを食べ、同じ場所にだけ行き、同じことだけをする。自分で自分の視野を狭めている。物事において一つの選択肢しか見えなくなる。世界の広さや自分の可能性を認識できなくなる。それで目の前のことで必要以上に悩み、思い詰めてしまう。自分を苦しめているその人が、その状況が、その環境が、世界のすべてになってしまう。“それ”に過剰にとらわれてしまう。だから小さな選択から日々にちょっとした冒険を取り入れてみるのは大事だと私は思う。コンフォート・ゾーンから意図的に自分を少しずらすこと。

下北沢MOSAiC。BLUEGOATSのホーム・スタジアム。私にとっては二回目。ダイナマイト・マリンさんフル・マラソンを走ってからコンサートに合流する企画のとき以来。開場前、人がいっぱいだと驚くおまいつ。前回同様、新規客が無料。VIP→一般・招待→新規という順で入場。決めた。今日は音を直で浴びよう。私を苛むこのうっすらとした憂鬱感と苦しさを吹き飛ばすための、一種のセラピーとして。左ポケットの耳栓(THUNDERPLUGS)には手をつけず。開演直後からやっぱり音が過剰にデカい。習慣的にこの環境に身を置けば確実に耳を悪くする。今日は気にしないことにした。3列目の中央付近。前回が最高に楽しかったから今回はどうなるかと思ったけど、それをさらに超えてきた。フロアとステージの一体感、ノリが前回よりも増長し、確立してきている。初めて観た2月18日(日)の投げ銭公演からの変化が凄まじい。もはや別の集団にすら思える。この急速な変化と発展を目の当たりにすることが出来たという意味で、私はスゴくいいタイミングでBLUEGOATSを知ることが出来たんだと思う。この集団が目指すノリの中核を成す、みんなで一緒に歌うこと。私は前回まであまり乗り気ではなかった。今日、それが変わった。リリックうろ覚えで誤魔化しつつも声を出して歌ってみると、これまでとは違う感情になった。特に『君の唄で生きていたい』では日頃押さえつけている感情が身体から溢れ出て涙が出てきそうになった。自分を大事にしていいんだ、ムカつくことにムカつくって言っていいんだって思える。「非難すべき奴 後ろ指さして」(K DUB SHINE - キングギドラ、『真実の弾丸』)。BLUEGOATSのスタンスは、ここで日頃のストレスを解消してまた明日から仕事を頑張ってね、ではない。そのむかつく奴、一緒に殺そうぜ、なんだよね。癒しとはヴェクトルが異なる。(特にダイナマイト・マリンさんの歌詞や言動からそれを感じる。)自分も歌うことを前提にすると、曲の聴き方が変わる。ヴォーカルを音として聞き流すのでは不十分だ。自ずとリリックを意識するようになる。我々が共に歌うことが特別な意味を持つのも、そのリリックをメンバーさんが書いているからこそ。次に行くときまでにもっとリリックを覚えて、もっとBLUEGOATSの音楽と、BLUEGOATSのリリックと、一つになりたい。終演後、明日ヘッド・スパに行かなくてもいいかもしれないと思えるほど気分が楽になっていた。BLUEGOATSは今の私にとって、効果が一時的であったとしても、間違いなく救いである。

コンサートの後にトーク・ショー。(開始時間が延びた。メンバーが疲れてまだ汗がひかないので、と事務所の紳士が説明し、フロアに笑いが起きた。)豪華な構成。ゲストに中森明夫氏。おそらく大した事前打ち合わせも台本もなくポンとステージに席を設けられ、後はお願いしますという感じだったように見えた。それでも氏はBLUEGOATSのメンバーさんからうまく話を引き出しつつ(アイドルになったきっかけ、これまでの人生で一番怒りを感じたこと、炎上したことなど)、自身の知識や経験も披露し、トーク・ショーを見事に回していた。私は大学一年生か二年生の頃に受けていた授業のゲスト・スピーカーとして氏が登壇していた記憶がある。友人(Y君)が彼のファンで、最後のQ&Aで手を挙げて質問をしていた。もうあれから約20年経つ。BLUEGOATSのヘッズのほとんどは氏のことを知らなさそうだった。そんな彼らも思わず聞き入ってしまうほど聞き応えのあるトーク・ショー。プロの技。BLUEGOATSを一言のキャッチ・コピーで表すと何ですかという三川プロデューサーの不躾な質問に中森氏が鮮やかに返した「怒り萌え」という回答が、私はとても腑に落ちた。中森氏曰く、可愛い感じで笑顔を振りまき、パンチラチックな衣装で踊るという一般的なアイドルとは違って、怒りをぶつける。それによって生まれる可愛さを表現しているのがBLUEGOATS。(たしかに言われてみると怒っている女性が醸し出す色気は存在する。何年か前にハムロックさんという紳士が尾形春水さんを中傷する動画をYouTubeに上げたとき、怒った尾形さんが明らかに顔を上気させながらTwitterの動画で喋っていたのを見、私は彼女に性的魅力を感じた。)
「お金よりも大切なもの」に気づく手段、それは「怒り」でした。自分でも少々驚いたのですが、これ以外に答えがありません。[…]
「怒り」が「損得」を上回った時に、人は、損得を離れて、損得以上に大切なものに目を向けることができます。
(山崎元、『がんになってわかったお金と人生の本質』)

チャンチーさんとチェキ。撮る直前、私の左肩付近にちょこんと頭をくっつけてくださって、ちょっと好きになった。少し前に公開されたこの動画に関する話をした。前から彼女に話したいと思っていた。今日のライブが楽しくてイヤな気分が一掃された旨も伝えた。20時過ぎ、会場を出る。歩いて数分のTHE PIZZAでD氏と合流。閉店時間は21時のはずだが、既に店員の青年が漂わせるすぐにでも店を閉めたいVIBESは満タン。私、マッシュルーム、ペパロニ、ラム・コーク。D氏、マッシュルーム、コロナ。後からG君も合流。彼はマッシュルーム。(飲み物は忘れた。)THE PIZZAを出る。「あー、食った食ったー」とD氏。「食った食ったって一枚しか食べてないでしょ」と呆れる私。いやもう限界っすよ的なことを言っていたD氏が、次に入ったミスター・ドーナッツではドーナツを二つ購入している。「結構食うんすね」「別腹なんで」。下北沢駅前の喫煙所でしばらくチル。そして散る。

2024年8月10日土曜日

台湾の裏で主催しちゃうぞ? (2024-07-27)

LINEを開く。滅多に来ない父親からの連絡。曰く、8月末で引退することにしたという。70歳。定年を迎えた後も再雇用で働いていた。会社員としては昇り詰めたと言っていい。最後の方には役員になっていた。受け取っていた年俸額は今の私の倍。いや、父とそういう話を積極的にしてきたわけじゃないんだけどさ。引っ越しのとき保証人になってもらっていて。年収額を申告する必要があって。そのときに聞いて知るわけさ。もちろん大事なのはどれだけ稼いだか、どれだけ出世したかではない。とにもかくにも家庭を作り上げ、二人の子供たちを育て、支えてきたこと。そのために人生を懸けてきたこと。心から尊敬する。自分よりも家族のために生きること。それが社会的に成熟するということなのだろう。数ヶ月前には会社で目眩を起こし倒れ、救急搬送されていた。幸い、大事には至らなかったが。母親も徐々に歩く能力が落ちてきている。先日、家の前の急ではない階段で転び、頭を強打した。私は母が転んだことよりも、受け身を取れず直で頭をぶつけてしまったことが心配になった。いつまでも昔の元気で時には恐かったお父さん、お母さんではない。その日は一日一日、近づいてきている。それは意識せざるを得ないし、意識しないといけない。当然ながら私もそこに向かっている。毎日毎分毎秒、老化と死への道を進んでいる。それは本日、入場特典として全員に配られた無料写メ券(太っ腹!)で撮った大江れなさんとの写メを見ても実感する。私は確実に歳をとっている。老人になった自分の姿を視覚化できる。0か1かのデジタルである瞬間に突然、老人になるわけではない。もしかすると一気に加速するタイミングがどこかであるのかもしれないが、基本的には常にちょっとずつ老化していく。だから私には既に老人の要素、面影がある。段階を踏んでいる。

私はこれからどうしていくんだろうか。単純化して言うと、ストレスで得たお金でストレスを発散させる。ストレスで得たお金で、ストレスで傷んだ心身のケアをする。月~金のストレスを土日で癒す生活、それを52回繰り返して1年。それをあと何十回か耐え抜いた先に何が残るのか。自分は何になるのか。一週間を、一ヶ月を、一年を乗り切っている生活をループしているように見えても、自分は確実に老化していく。このまま老人になったとする。それで何の意味があるんだろうか。意味がないと言っているわけではない。自分でも答えが分かっていない。生き抜くこと、食いつなぐこと、それ自体が尊いんだろうか。他人を応援し、彼らが何かを成し遂げる姿に入れ込むことで、自分も何かを達成したように錯覚すること、それが幸せで、生きてきた意味があるのだろうか。それは対象がたとえばアスリートやアイドルさんといった赤の他人だからよくなくて、自分の子供だったらそれでいいんだろうか。分からない。一つ言えるのは、人生の目標というほど大袈裟なものではないにせよ、何らかの現実的な着地点を設定する必要があるということだ。死を明確に意識するようになるお年頃の方々が行うといういわゆる終活の、もっと手前のヴァージョンをやる必要がある。学校だったら勝手に向こうの方から年数を決めてくれて、試験があったり、卒業があったりと、こっちの意思に関係なくイヴェントが発生する。働き始めてからはそういうのを自分で決めていかないといけない。それにちゃんと気付いていない人って自分を含めて結構いるんじゃないか。でも、気付かなくてもいいんだよね。子供が生まれれば。子供が生まれた瞬間、自分の人生の主役が子供に移行するわけだ。自分が何を成すべきなのかとか、何のためにこんな苦しい仕事をしているんだとか、そういった疑問を持つ意味がなくなるわけ。答えは一言、子供のためだから。子供は人生の多くの悩みに対して万能の答えを与えてくれるんだ。私は子供が出来たことがないけど、たぶんそうなんだ。子供のため、家族のためという答えを持たない我々にとって、人生の問題がすべて自分の問題になり、直で向き合わないといけなくなる。なぜ働くのか。もっとハッキリ言えば、なぜイヤなのに苦しい労働を続けるのか。「お金のためです。それ以外に理由はありません」。養う家族がいた上でのその回答なら自ずと利他的で崇高な意味を帯びる。かたや我々がお金のために働くと答えたら、利己的な響きを内包する。だから我々は、お金のためという単純な答えでは自分のことを納得させることが出来ない。実際のところ、私にとって働く理由はお金以外にない。もし一生暮らすのに困らないお金がポンと入ったら今の会社なんかすぐに辞める。だが辞めたとして毎日何をやって生きていくんだ? と考えたときに、サッカーを観て、コンサートを観て、という風に消費者としての自分しか残らない。私は少なくとも会社員という現実的な枠組みの中では、職選びを間違えてはいないと思う。そして具体的な業務レヴェルで見れば目の前の困難や課題を乗り越えていくことに面白味を感じることもある。だけど大枠ではやりたいことをやっていない。就職してこの方、やりたいことなんてやったことがない。労働の枠内でやりたいことなんて、ない。というか、やりたいことって何? コレが18年間働いた上での結論だ。大学生の頃の自分よ、これを聞いて悲しいか? もっと悲しいのは食いつなぐため、つまり自分一人を養うためだけにもコレをあと何十年も続けないといけないということだ。

何のために生きるのか、何のためにイヤな仕事をするのか、何のためにクソな生活に耐えるのか。そういった疑問への回答を、家族を持たない我々にも与えたのがアイドル文化だ。子供(家族)のためです、の替わりに、推しのためですという答えが用意されたのである。それがどれだけ社会一般に通用するかは別にして、少なくとも当人にとってはある程度の救いとなる。私もそうやって騙し騙しやってきた面がある。しかし、そこまで幼稚ではいられなくなってしまった。今でも一応はアイドルというジャンルに属する女のコたちを観てはいるけれども、Hello! Projectにどっぷり浸かっていたころとは感情が異なる。アイドル的なものに対してちょっと醒めている。何と言うか、ニコニコと愛想を振りまく可愛い美少女たちにデレデレする、公演で名前を叫び、レスがどうのとか認知がどうのとかで興奮して夢中になる、というのが自分の中で難しくなってきている。それはカッコつければ精神的な成熟なのかもしれないし、身も蓋もない言い方をすれば性欲の減退なのかもしれない。夢も希望もないが、そもそも夢と希望とは、性欲を原動力にした狂いではないだろうか。だから夢と希望を持てるのは若者の特権である。夢を与える仕事。かつて小野瑞歩さんはアイドル稼業をそう言っていた。本来は繁殖、子育てに向けられていたはずのエネルギー。それを別の手段で発散する場がある、相手がいるという(錯覚の)希望。救い。もしアイドルが夢を与える仕事だとすると、それが夢なのではないか。

『「百年の孤独」を代わりに読む』(友田りん)という本を読んで思ったのだが、多くの娯楽はお金を払って何かを代わりにやってもらうことだ。たとえば、今ステージにいるKissBeeのメンバーさんたちが私たちの代わりにやってくれているのは何なのだろうか? 私は考えた挙げ句、しっくり来る一つの答えが見つかった。それは、いま自分がやりたいこと、ではないだろうか。ステージで歌って踊る大江れなさん、吉田琴音さん、鈴木みゆさん、小川みさきさん(藤井優衣チャンをはじめとする他のメンバーさんたちは本日、台湾に出張している)を観ていて確信したのが、彼女たちは自分のやりたいことをやって生きているということだ。もちろん個々の業務内容を見れば苦しいことややりたくないこともあるかもしれないが、大枠としてはやりたいことをやっている。細かく見れば充実する瞬間があるけど大枠ではやりたくないことをやっている私とはまさに逆である。彼女たちは私が出来なかった生き方を、そのリスクも背負って代わりにやってくれているのだ。やりたいことをやるへのアンチ・テーゼが、将来を考えるだ。そんなことをやって5年後、10年後どうするのって。そうやって私たちは将来のためと呪文のように唱えられ続けて育てられてきた。私はそうやって生きてきた結果として、これから自分が何をやりたいのかも分からない大人に育った。私自身の生活を客観的に見た場合、あたかも老人になるまで生き延びることそれ自体をゴールとしているかのように見える。ゴールも設定せずこの生活を続けるだけでは、それ以外に世に何かを残す見込みがないからだ。私の人生は、老人になるまで死なないためにあるのだろうか? ふと途方に暮れる。それを日々の忙しさと娯楽の刺激で誤魔化している。結局のところ、いま自分がやりたいことを追求してみることなしに、5年後も10年後の明るい未来もないのではないだろうか? 長期的に働くことを考えれば労働にはリアリズムも必要だ。一方で、いまやりたいこと、いましか出来ないことをやっている人たちにしか出せない輝きというのは、確実に存在する。もちろん、アイドルさんの生活や未来を美化するつもりもない。あの世界はやりがい搾取と紙一重であり、全人格を懸けた感情労働はメンタル・ブレイクダウンに繋がりかねない。