2018年9月16日日曜日

マリーゴールド (2018-08-26)

田村芽実chanのファンなので、というだけの理由でサンシャイン劇場に出向いた私とその他大勢の観客との間には温度差があった。開演前に席でアンケートを眺める。先に分かる箇所だけ埋めておこうと質問を眺めるが、早々にペン(PILOTのacroball)を持つ手が止まった。サッと答えられる項目が来場のきっかけ以外には名前、年齢、住所くらいしかない。この『マリーゴールド』というミュージカルはTRUMPというお互いに関連した作品群の一つなんだ。どの作品がいちばん好きですかとか、TRUMPシリーズの魅力は何ですかとか、ぜんぶ観ている上にシリーズの大ファンであることを前提にしたような質問ばかりで。私は『グランギニョル』をココで観たでしょ、あと一つDVDで観たけど、題名は何て言ったっけ? という程度だった。日常生活でTRUMPが頭をよぎることは一切ない。特別に好きというわけでもない。自分が答えていいアンケートではなかった。

公演中にも周囲の観客が嗚咽を漏らす場面が何度かあった。そのいずれにおいても私はいつだって平常心(関西風に言ったらええ調子 by カルデラビスタ)に近かった。彼女ら(観客は7割方、女性)と私では入り込み方が違う。『マリーゴールド』を観た人の感想をいくつかTwitterで見たけど、どうも打ちのめされるのが標準的な反応のようだった。私は老化で感受性が鈍くなったのか、どぎつい創作物に触れすぎて感覚がバカになっているのか、感情移入できるだけの人生経験が不足しているのか、脚本家の末満健一さんとの相性がよくないのか、とにかくTRUMPの世界観に夢中になることが出来ない。理解は出来たつもりだ。何せ、二回観たしね。13時開演の部と、18時開演の部。同じ日に同じミュージカルを二回観るという自分の選択に疑問を感じたが、同じ日というのは別として、二回観たのは正解だった。一回目で65%以上、二回目で90%以上は分かったはず。ただそれは分母を『マリーゴールド』というミュージカルの2時間半で表現されている内容に限定した場合だ。それでは十分ではないというのが問題だった。TRUMPシリーズ全体を分母にした場合、おそらく私は2割程度しか理解が出来ていない。じゃあ残りの8割を埋めるために過去作をディグるかというと、それをする気はない。前にも書いたがそれをするくらいなら読みたい(TRUMPとは無関係な)小説がたくさんある。部屋に積ん読がどれだけあると思ってんねん。公演中を除く人生時間をこの作品群に捧げるつもりはない。

何で自分がTRUMPシリーズの愛好家になれないのか。しばらく考えていたんだが、一つの有力な仮説として、今の自分にはfantasyが足りているからだというのが浮かんだ。現実、という言い方はおかしいんだけど、仮に労働生活を現実とした場合、今の私には現実があって、それと向き合うfantasyとしてのHello! Projectがある。それが事足りている。新たなfantasyを必要としていない。そういえば最近、ほとんど映画を観なくなった。無職の頃にはよくキネカ大森か新文芸坐(池袋)に行って、二本立ての名画を楽しんでいた。そうしないと耐えられなかった。映画のfantasyに浸っている間は現実(この場合は労働生活の欠如、そこから来る経済的な苦しみ、無力感、漠然とした不安)を忘れることができた。無職時代にもHello! Projectの現場には行っていたけど、金銭的に今のような頻度では無理だった。1,300円で4-5時間のfantasyを与えてくれる名画座が重要だった。現在でも、fantasyに救われているのには変わらない。Hello! Projectは労働のストレスを癒してくれる。何度も何度も助けられてきたけど、必ずしも労働からの逃避ではない。リリース・パーティの翌日に、みずちゃんが可愛かったなと労働中に思い返すことはあるが、基本的に労働中は労働と向き合っている。そのための力をHello! Projectからもらっている。よくJuice=Juiceの高木紗友希さんが、皆さんの日頃のストレスが吹っ飛ぶような時間にしたいとコンサートの意気込みを語るけど、その通りの恩恵を私は受けている。

私が『マリーゴールド』の内容について語らなければと思うことはほとんどない。検索すればおそらくハーコーなヘッズによる考察や分析がいくらでも引っかかるだろう。私はそこに時間を使いたくない。でも何も書かなければそのうち忘れてしまうだろうから(たとえば自分が過去に何を考えてどういう気持ちで℃-uteを応援していたかなんて思い出すのが難しいんだよね。数年前のことなのに。書いて残しておくのは重要)、簡単に書いておく。田村芽実chanは、人間と吸血鬼の間に生まれた子供の役。名前はガーベラ。花言葉は希望。この社会では人間と吸血鬼の交配はタブー。母親から家の外に出るのを禁じられているガーベラは窓から外を眺める。人々は彼女を窓際の化け物と呼ぶ。(人間と吸血鬼が交わるという話は、人種間交配のメタファーか? と思いながら私は観ていた。)家の外に咲いている花がマリーゴールド。花言葉は絶望。当たり前かもしれないが、出演者にプロしかいない。全員がちゃんと歌えて、演じられる。そんな中、田村芽実chanは大きな役をつかんだ。彼女とガーベラの母親役の女性の二人が主演だった。もちろん元アイドルだからそういう枠で(集客とかを考えて)起用されたんでしょ的な色眼鏡が入り込む余地はまったくなく、主演に相応しい演技と歌唱だった。ガーベラは母親以外の他者には心を閉ざす。他人の好意にも、要らない、キライ、といった排他的な言葉を吐き捨てる。少しもったりしたしゃべり方。クランから来た二人の青年が、彼女を永遠の繭期に連れ戻そうとする。(余談だが、といってもこの記事に限らずこのブログすべてが余談だが、冒頭の、単刀直入に尋ねるが…という台詞を聞いて、たで揃えてきたと思ったし、生徒しか…という台詞では咄嗟に生と死か、成都しか、といった文字が頭に浮かんだし、内容の前に語呂が気になって仕方がなかった。)

田村芽実chanの支持者であることをほぼ唯一の理由として彼女のファンクラブ先行受付でチケットを獲得した。彼女の歌を聴きたかった。彼女の演技を観たかった。TRUMPシリーズの敷居の高さからすると浅はかな動機だったかもしれないが、それでも十分に楽しめた。何をもって十分とするかの問題はあるが、少なくとも自分は満足した。田村芽実chanを応援しているのであれば、遠征してでも観なければならない。そう断言できるほどの印象的な表現を見せてくれた。