2023年7月17日月曜日

ダ・ポンテ〜モーツァルトの影に隠れたもう一人の天才〜 (2023-06-25)

家から徒歩圏内の池袋、東京建物ブリリア・ホールでの公演に入りたかったが、日程が合わなかった。池袋での公演期間は7月9日(日)〜16日(日)。週末でいうと三日間。9日(日)に関しては、前日の夜に名古屋でフットボールを観ている。いつ東京に帰るかは未定。ひょっとすると休みを繋げて月曜まで名古屋にいる可能性もあった。15日(土)は日産スタジアムで横浜F・マリノス対川崎フロンターレ。となると残るのが16日(日)だがこの日は一公演のみ。東京公演の千秋楽だけ行くってのもね。いや別に千秋楽だけ行ったら悪いわけではないけど、自分的にあまり気が乗らない。ということで6月25日(日)のプレビュー公演を観るために北千住くんだりまで来ることになった。池袋のスギ薬局でスト・ツーとコラボしたロート・ジーを見つけ、思わず購入。エーラージでAセットのマトン。JPY1,000。

シアター1010。前にも来たことがある。めいめい関係だったはず。駅前のマルイの中。11階。入場口。係員たちは全員マスク。壁にマスクのロゴが貼ってあるのが見える。この私でもちょっと日和りかけたが、素顔での通過を決行。何も言われなかった。場内のアナウンスメントではマスクの着用を推奨しますと言っていて、前から微妙に変わっていた。「お願い」という名の強制はなくなって、実際には自由になっているのだ。にもかかわらず「推奨」という言葉で煙に巻き、どさくさに紛れてマスクを続けさせようとしてくる。カス連中。もはやどの立場から何のためにどういう根拠でその「推奨」とやらをしているのかが完全に不明。演劇業界は頭が悪い人たちに牛耳られた後ろ向きな業界。そしてジャップという民族は本当にどこまでも陰湿で卑怯。リメンバー・パール・ハーバー。行動経済学の本に書いてあった。クレジット・カードのロゴを表示するだけで(クレジット・カードを使わなくても)客が払う金額は増える(Dan Ariely and Jeff Kreisler, “The Dollar Effect”)。目の絵を貼り出しておくと犯罪が減るという話も聞いたことがある。同様にマスクのロゴを掲示するだけで、明示的にお願いや強制をしなくても、それはマスクを着けろという無言の圧力として機能する。この数年間マスクが持ってきた社会的な意味を考えればそうなるのも当然だ。客席を見てみろよ。9割の奴らがマスクをしてやがる。ストリートの着用率よりも高い。前に元浦和レッドダイヤモンズの福田正博さんが浦研プラスの配信で興味深いことを言っていた。曰く、日本人選手は何々をやるなと言われると萎縮して何もやらなくなってしまう。そして何々をやれと言われるとそればかりをやってしまう。例として、今シーズンから就任した浦和のマチェイ・スコルジャ監督が練習開始の5分前にはグラウンドに来るようにと選手たちに指示をしたところ、異常に早く集まるようになった(それを受けてスコルジャ氏は5分前集合の指示を撤回した)。要は上の立場の人から何かを言われると、よかれと思って求められている以上のことを勝手にやってしまう。ここ数年の日本社会におけるマスクの扱いを見ても分かるように、その過程で赤の他人に対し実質的な強制を行うことへの疑問すら抱くことが出来ない。個人や自由といった西洋近代の根幹にある概念を習得できないまま奇跡的に経済発展だけしてしまった歪さ。ともあれ、マスクをしていなくても咎められることはなかったし、来場者の9割がしていようがそれはその人たちの勝手。私の知ったことではない。

めいめいは主役ではなかったけど、彼女目当てで一度は観に来る価値があるくらいの見せ場はあった。二度目、三度目と観たかったかというとそれはなかった。めいめいが中心にはいないのもあるが、それ以上にこの劇自体が私にとっては特段おもしろくはなかった。たとえば『ジェイミー』のようにめいめいがそこまで目立たなくてもミュージカルとして感銘を受ける場合は、もう一度観たかったなという余韻が残る。実のところこの『ダ・ポンテ』は凡庸だった。めいめいの支持者として一回観たからそれでよし。それ以上ではなかった。めいめいは、ダ・ポンテの母親、ロンドンで困窮したダ・ポンテを拾う若い女、その若い女の老後(ダ・ポンテの妻)という三役を演じていた。私の席は8列9番。センターブロック左端の通路席。序盤にめいめいがソロ歌唱をするときは真正面だった。劇を通してめいめいが左寄りに来ることが多く、事実上のセンター席と言ってもいいくらいの好位置だった。私は出演者の誰に対してもケチをつける気は一切ない。スタイル、技量、カリスマ性、人気などさまざまな面でトップ級の方々だからこの舞台に立てているのだろうと思う。だから誰が悪かったということではない。それを前置きした上で言わせてもらうと、モーツァルトと言われましても。どう見てもカツラをかぶった純日本人ですやん。というひねくれた考えを、どうしても頭から消し去ることが出来なかった。日本人が西洋人を演じるときに避けられない問題。単に見た目の話だけじゃなくてさ。たとえばダ・ポンテがゲットー出身のユダヤ人であるということで差別的なことを言われたりするんだけど、それがこのシアター1010の中にいる人たちにどこまでリアリティを伴うのか。正味な話、演じている当人たちだって大して知らないでしょ?(失礼。)そりゃこの劇のため、もしくは前に別の作品に出る際に多少の勉強はしたかもしれないけど。たとえばの話、ユダヤ人ではなく朝鮮人、ゲットーではなく部落だったら感じ方が全然違ってくる。その辺の肌感覚だよね。そういったことがどうしても気になってしまい、最後まで頭のどこかに違和感があった。そういうのを抜きにして観れば、面白いは面白いんだけどね。モーツァルトと二人三脚で音楽を作っていたダ・ポンテという人物がいたんだっていうのを知れたのも単純に興味深かったし。めいめいがステージで歌っているのを近距離で聴かせてもらえれば、それだけで私の口角は上がる。私の生活ではめいめいを観ているときにしか使わない顔の筋肉がある。