この淑女を一目見るためにJPY9,500の公演チケットを購入した。誰かって言われても何て読むのか分からない。安くないチケット代に加えさらにJPY2,000くらいを払う羽目になる。ブルーノート東京では飲み物か食べ物の注文が必須だからだ。でも何て読むのか分からない。私がSpotifyで2023年によく聴いたアーティストの3位くらいだったと思う。でも何て読むのか分からない。一回読み方を知ったことがある。もう忘れた。何て読むのか分からない。覚えづらいことこの上ない。9m88。どう読むのか分かるか? 正解は、きゅーえむはちはち。ではない。ジョーエムバーバー。分かるか。覚えられるか。もう覚えたけど。
2023年4月5日(金)にブルーノート東京のウェブサイトを眺めていて、何かめぼしい公演はないかなと思ったら9m88さんの名前が目に飛び込んできた。Spotifyでよく聴いているあの歌手! 曲の題名から漢字圏の方なのは分かっていたが、詳しい素性は分からない。おそらく活動拠点は日本ではない。生で観られる機会もそうないだろう。私にとっては最初で最後になるかもしれない。観に行くしかない。すぐにチケットを購入。
私が氏を知ったのがおそらく2023年2月22日(水)にドロップされた黒田卓也さんとの合同曲、『若我告訴你其實我愛的只是你-What If?』。たぶんSpotifyで先に黒田卓也さんをフォローしていた。黒田さんのニュー・リリースとして流れてきたこの曲で初めて9m88さんの歌声に触れた。それで9m88さんのアルバムを聴いたらめっちゃええなんってなった。そういう流れだったと思う。だから黒田卓也さん経由で知ったということになる。黒田卓也さんをフォローした経緯は定かではない。正直ちゃんと聴いたことがない。本当にちょっとしたきっかけで軽くフォローしたんだと思う。アマゾンで気になった本をとりあえずカートに入れるような感覚でさ。黒田卓也さんはトランペット奏者なんだけど、私はそこまでトランペットに興味がなくて、ジャズを聴くときはピアノありきなんだよね。
家を出て、表参道に向かう、せめてその間だけでも黒田さんの最新アルバムを聴こうと思ったんだけど、どうも気乗りしなくて。好きじゃないとかじゃなくて。気分的に。しっくり来ない。Arakezuriっていうインディー・ロック・バンド(BLUEGOATSさんの24時間ライブのチャンチーさんと三川さんのトーク・セッションで話題に挙がっていた)のプレイ・リストに切り替えた。青山のBALATON CAFEで時間調整。ホット・コーヒー。ブルーノート東京にあまり早く入っても開演前に飲み物のグラスを空にしてしまう。音を浴びつつちびちびやりたい。20時15分に入場。20時27分に届く紅菊水(梅酒)。ブルーノート東京とコットン・クラブはお酒をロックで頼むとチェイサーの水をつけてくれる。20時半開演。完璧なタイミング。
カウンター席という席種を初めて買ってみた。一番後ろの壁際。全体を見渡す位置。バスじゃもろ最高部な奴らが好みそうな席。悪くなかった。最大の利点は向かいに人がいないこと。ブルーノート東京の席は基本的に、誰かと一緒に観に来るのを前提につくられている。どの席を選んでも誰かと向かい合うか密接することになる。カウンター席だとその居心地の悪さがほとんどない。壁を背に座る。前に丸いテーブルがある。そのテーブルを二人でシェアする。(単騎で乗り込むかぎり)赤の他人と隣同士にはなるが、向き合うわけではないのでさほど気にならない。そして、見晴らしがいい。アリーナ席よりも一段上にある。ステージからは最も遠い席だが、視界が他のヘッズで遮られることはなかった。反面、前方席と比べるとどうしても臨場感、音の迫力は落ちる。周囲の雰囲気も落ち着いており、何となく声が出しづらい。コンサートを作り上げる当事者というよりは後方彼氏面的なスタンスに誘導される。軽い気持ちで観に来る分には最適な場所だとは思う。他の席と比べると値段が安いし。
バンドは5人編成。黒田卓也さん(トランペット)、Corey Kingさん(トロンボーン、ヴォーカル)、泉川貴広さん(ピアノ、キーボード)、Kyle Milesさん(ベース)、Zach Mullingsさん(ドラムス)。スペシャル・ゲストに9m88さん(ヴォーカル)。今の私では何がどう良かったかを具体的に語るのは難しい。というのが、先述したように私は黒田卓也さんの音楽を十分に(というかほとんど)聴いていない。それに加え、私はピアノがメインではないジャズのコンサートに来たことが一度もない。音源でも少ししか聴いたことがない。だが一つ言えるのは、来てよかったということ。今日のチケットを確保した後に会社のグループ・ディナーの誘いが入ったのだが、そんなものに行っている場合ではなかった。黒田さん曰く昨日のリハーサルを含めると15日連続でコンサートをやっているとのこと。毎日5時間ほどの移動を挟みながら。東京に来る前はアメリカの西海岸でツアーをやっていた。その興奮が醒めやらぬ感じが黒田さんの言葉から伝わってきた。ジョークのノリがアメリカっぽかった。今日も2万人の観衆が…いや、2万人は言い過ぎか(笑)とか、プレミア価格がついている過去作品のヴァイナル盤が物販で買えるから一人10枚買ってほしい、10年後に転売したら何かの足しに出来ますよとか。黒田氏は9m88さんと話すときなど、度々ステージ上で英語を話していたが、当然ながらこなれていた。いちいち日本語に訳さない。青山に吹く、心地よいアメリカの風。
何という曲かは分からないが、結構な長尺で(腕が限界になるくらい)私たちにさまざまなリズムで手拍子をさせる曲があって、それが楽しかった。単に曲に合わせて我々が手を叩くのではなく、我々の刻むリズムが曲に欠かせない構成要素になっていた。途中で男(と自分で思う人)と女(と自分で思う人)で叩くリズムを変えたりして。
私が9m88さんを知るきっかけになった『若我告訴你其實我愛的只是你-What If?』を生で堪能することが出来た。感激した。この曲を実際にステージで共演するのは今日が初めてだったらしい。(私が観たのは2nd setだったので正確には2回目。)9m88さんは本編に3曲、アンコール後に1曲と、たっぷり4曲に出演。彼女を目当てに来る価値が十分にあった。9m88さんを観ながらふと思ったのだが、日本で職業としてのいわゆるアイドルに従事している人々の中にも、やりようによっては9m88さんのような素晴らしいソロ・シンガーになれた人はいたんじゃないだろうか。だがそれは狭すぎる門というか、もはやそんな市場はないのだろう。お金の動くところにしか職はない。本日、黒田さんが披露した新曲の一つに、新幹線をテーマにしたものがあった。発車時刻まで時間があるからと余裕をぶっこいていたら車両が遠く、みんなで走ってギリギリで乗り込んだときのことを曲にしたという。JRに売り込むつもりです。お金のあるところからお金を取らないといけない。ジャズ界は厳しいですから、と冗談混じりに言っていた。
ブルーノート東京が和やかな雰囲気に包まれる中、ある観客が私の目に留まった。彼はまったく楽しそうではない。ステージを見るでもなく、どこか虚空を見つめている。拍手もしない。こわばって変わらない表情。見えない感情。コンサートにまったく入り込めていない。心ここにあらずを形にしたような存在。勝手な決めつけではあるが、私には彼がうつ状態にあるようにしか見えなかった。数年前の自分を思い出した。