2015年2月16日月曜日

仕事と休み

平凡な週末だった。土曜も日曜も似たような過ごし方をした。ゆっくり風呂に入って、洗濯をして、掃除をして、布団を干して、KFCや喫茶店で本を読んで、少し仕事関係の勉強をして、池袋の楊で汁なし担々麺を食べて、四季海岸で火鍋を食べて、ジムで汗を流して、近所の日式中華料理店で牛肉のカキソース炒めを食べて、東急ハンズでシャンプーとコンディショナーと洗顔用の石鹸を買って、HDDに溜まった『やべっちFC』などのテレビ番組を消化した。誰とも会わなかった。店員を除けば誰とも会話をしなかった。少し退屈だったが、悪くはない。それどころか一年前と比べれば天国のようだ。今の私はこういうまったりした休日を過ごせることが幸せであることを知っている。

私は2013年の5月から2014年の7月までの一年と二ヶ月ほど、無職をやっていた。忙しく仕事をしている人から見ると、無職は毎日が休日のように見える。遊び放題、羽根を伸ばし放題。だが、「毎日が休日」を実際に体験してみると、バラ色の日々からはかけ離れていた。職がなかった14ヶ月の間、一日たりとも、働いているときに楽しみにしていたあの「休日」はやってこなかった。仕事があるからこそ休みを楽しめて、休みを楽しめるからこそ仕事が出来る。もっとも、この原則には例外もある。つまり、仕事の負荷や労働環境、人間関係によるストレスが自分にとっての適性値を超えれば休みを満喫する余裕はなくなる。休みがあれば即幸せなのではなく、仕事があれば即幸せなのではなく、仕事と休みが自分にとって好ましいバランスを取っているから幸せなのだ。一日の中にもそういうバランスはある。平日、会社からの帰りに外で夕飯を食べて、店を出た直後「おいしかった…」としみじみして、仕事の緊張がほどけて、一日の労働が報われたような気持ちになるのが好きだ。料理のおいしさとは別の満足感。特に翌日が休みの日は格別だ。この感覚は仕事がないと味わえない。仕事と仕事の終わり。緊張と緩和。義務と報酬。束縛と自由。片方があるからもう片方が意味を持つ。

「これを乗り切れば休みだ」と言えて、実際に気力と体力を残したまま休日に突入できるのは幸せなことだ。休みを励みに働くことを恥じる必要はない。仕事そのものを生き甲斐に出来ていないことを悲観する必要もない。世の中には職に就きたくても就けない人がたくさんいる。仕事がありすぎてまともに休めない人もいる。仕事があって、休みもあるのは贅沢なのだ。贅沢であるというのを分かった上でそれを存分に味わうべきだ。無職の頃、ハワイアンの音楽が流れるハンバーガー屋さんで夕飯をとっていたら、近くの席にいる若い女性2人が「精神を病まない程度に働いておいしいものを食べられたらいいよね」という話をしていて、その言葉が頭から離れなかった。この国の労働環境を生き抜くにはそれくらいの人生観が必要なのだろうか。これも無職の頃の話だが、何度かハローワークという絶望空間に行った。そこで見たある光景が、今でも忘れられない。赤ん坊を背中に括り付けて、壁に貼り出された求人票を眺める女性。足下にも小さな子供が駆けずり回っていた。おそらく二人の小さな子供を育てているシングルマザー。壁に出ている求人は(ハローワークにある求人の多くがそうであるように)最低賃金付近の仕事ばかりだった。無職になる前は会社や仕事に不満タラタラだったが、無職時代に味わってきた感情、見てきた光景を経てからは、それまで自分にとって当たり前の権利だったことが贅沢の極みに感じられる。