2017年5月7日日曜日

2013年、夏、無職。

2013年7月某日

祖母が亡くなった。泣きそうな声で、母が電話してきた。先月お見舞いに来てくれたし、葬式はごく限られた身内だけでやるから○○には来なくていいと母は言った。

2013年7月某日

祖母の葬式に出るため、○○に行くことになった。最初は俺は行かないはずだったが、後からやっぱり来て欲しいという話になった。

ただでさえお金がない中、何とか速読スクールに申し込もうとしている矢先、自腹で池袋と○○を往復する交通費に充てられるお金はない。速読スクールに行けなくなるのは、受け入れられない。俺は、自分の人生を前に進めたい。
「行きたいという気持ちはあるんだけど」
「うん。どうしたの?」
「その、速読スクールに通おうとしているから、だから、ちょっとお金が厳しい」
「ああ、それなら出すから」
「そう? だったら行ける」
情けない会話だが、お金がないという現実はどうしようもない。父親から電話が来て、会場と時間を口頭で言おうとしてきたので、メールで送って欲しいと頼んだ。○○日の○○時からお通夜、○○日の○○時から葬式。

2013年7月某日

弁当を買っていたら時間がぎりぎりになった。急いでホームに行こうとしたら、何とか新幹線はこっち、何とか新幹線はこっちと、行く場所が分かれてやがる。知らねえよ。俺は新幹線に乗りたいんだ。朝からやけに腹の虫の居所が悪い。自分でもまずいと思うくらいイライラする。起きていてもロクなことはない。さっき買った総菜を食って、ジャズを聴いて景色を眺めながら、日本酒を一時間くらいかけてちびちび舐めて、寝た。一時間半くらい寝たら、少しは気分が安らいできた。○○で乗り換えて○○へ。

母からホテルにチェック・インしたらすぐに葬儀場に来いというメールが来ていたのでその通りにしたら、まだほとんど人が来ていなくて叔母が「もっと遅くてもよかったのよ」と言ってきた。喪服は現地で借りてもらっていた。手持ちのスーツではない正式な喪服を着るのは初めてだ。着てみると厚手のウールでびっくりしたが、父親によると喪服というのはこういうものらしい。上等なスーツなのは着て分かった。

どうやら俺が小さな子供の頃、会ったことがあるらしいお上品な白髪の男性が「久しぶりですね。覚えていないか」と言ってきたので「ええ、覚えていませんね」と言って愛想笑いをした。覚えていないし、思い出したくもないし、どうでもいい。住んでいる場所なんかを聞いてきた。それとなく俺の仕事を探ろうとしているのを薄々感じた。適当に言葉を濁して最低限のやり取りで会話を打ち切った。参列者たちは、自分の人生からは半分降りたような人たちばかりなので、誰々の子供がどこに勤めているとか結婚したとか、そんな話ばかりをしている。離れた場所でKindleを開いたが、居心地が悪すぎて、気が散って、何も読む気にならなかった。商社のニューヨーク支店に一年半駐在して最近帰国したという従兄弟が、エリート臭を発しながら社交的に振る舞っていた。人生品評会に巻き込まれて怪我をしないように、失業中で金髪の俺はなるべく目立たない場所で静かにしていた。早く時間が過ぎ去ってすべてが終わってくれとだけ願っていた。弟と、1年振りに会った。彼はアメリカ資本のコンサル会社に勤めている。退社するのは午前2時や3時が日常らしい。夜の10時に帰るときは「ちょっと早いですが」と頭を下げて帰ると言っていた。俺には絶対に無理だ。想像しただけでうつになりそうだ。彼は去年、結婚した。最近、35年ローンで家を買ったらしい。でもローンが終わる前に、売るだろうと言っていた。

お通夜でお坊さんがアカペラで意味不明な歌詞のラップをしている最中に誰かの携帯が鳴って、着信音がビートの役目を果たした。そのまま電話に出て、席を離れてひとしきり話した後、戻ってきた。その男には、誰も見覚えがないらしい。後で母と叔母は立腹していた。お通夜の参加者たちと一緒に、無理矢理、食事をさせられた。商社勤めの従兄弟は口角を上げて周りの人たちに飲み物を注いでいた。俺は弟の隣に座って、二人で話した。弟もそんなに社交的な方ではない。午後7時半くらいに解放された。ホテルに戻って、テレビを付けたらサッカーの日本対韓国はもう少しで前半が終わるところだった。日本と韓国が1点ずつ入れている。親戚の群れの中に無職金髪状態で放り込まれた後だと、一人だけの部屋でぼーっとする時間が最高の贅沢に感じられる。あの空間は、仮に有職黒髪でも嫌で嫌で仕方がない。最後の最後にカキタニが決勝点を奪い、日本が2-1で勝った。思わず叫んで喜んだ。

2013年7月某日

拷問の続き。葬式でお坊さんによるお経を聞くのが辛くなってきたら「変な曲 何語だそれ」というケーダブのリリック(『何でそんなに』:アルバム『理由』に収録)を頭に浮かべてやり過ごしていた。参列者たちが、お金を持って記帳するための列に並んでいた。弟もそこに合流して、立派な封筒をジャケットの内ポケットから取り出した。俺はお金なんて、用意していない以前に、そもそも原資がない! ないものはない! その場から離れた。記帳しなかった。シャカイジンじゃねえ。まともな大人じゃねえ。葬式が終わってから、火葬場に移って遺体を燃やすまでの待ち時間が最上級の拷問だった。よく知らないけど無視できない人たちと強制的に対面させられた状態で、時が早く過ぎるのをひたすら願っていた。アイス・カフェ・オレは飲み始めたらすぐになくなった。トイレに逃げると、一時的に解放感を味わうことができた。待合室の近くに小さな図書コーナー(といっても小さな本棚に本が数十冊程度)に行くと、火葬施設なのに何とか殺人事件という題名の小説が何冊も置いてあった。知らないおばさんから「お仕事は何をされているのですか?」というあの悪魔の質問が来た。「今はやっていないです」と平静を装って答えた。「勉強中なのよね」と、隣に座った叔母が助け舟を出してくれた。遺骨を壷に収めていくとき、骨を箸で取ろうとすると、思ったよりも骨がもろくて崩れてしまった。初七日とかいう強制的な食事会に参加をさせられて、最終的に午後2時過ぎまで拘束された。

2013年9月9日(月)

℃-ute、武道館。10時にグッズ列に入って、11時40分頃に購入完了。俺が買う頃には列はほとんど解消していた。神保町「ふじ好」で、鶏もも肉の親子天丼(650円)。からし醤油ダレが絶妙。思わず頷くうまさ。今日が℃-uteの単独公演として初の武道館。冒頭、会場とメンバーの高揚感と興奮に包まれて、泣きそうになった。

・萩原が一人で寝ることも出来なかった頃。
矢島「妹のように世話をした。萩原に頼まれてシャワー中ユニットバスのトイレで待っていた。暇だったのでカーテンを開けて携帯で動画を撮った」
萩原「セクハラ行為だから」
矢島「今思うとすごいものを…動画はすぐに消した」
・鈴木「今日は母が先に出たので家に一人だった。家を出る前、『お母さん、お父さん、ありがとう』と叫んで一人で泣いた」
・岡井「私は他のメンバーと違い、普通の女の子。こんな可愛い子たちと同じグループにいられて幸せ。(歓声に「皆さんは物好きなんですよ」と照れ隠しして)(℃-uteが?応援してくれる人たちが?どちらの意味だったか)私の誇り。℃-uteのおかげで物事を前向きに考えられるようになった」
・矢島「自分たちの力で大きな会場に立ちたいと思ったがなかなかうまくは行かなかった。このまま続けていいのかな、 と不安になることもあった。でも周りの人たちやファンに支えられてここまでやって来られた。11年かかったが武道館に立てた。続けてきてよかった」

2013年9月10日(火)

昨日に続き℃-ute、武道館。

矢島「東京がオリンピックの開催地になる。この日本武道館は柔道の会場。オリンピック主催が決まってから武道館でコンサートをやるのは℃-uteが初めて。アイドル戦国時代と言われているが、℃-uteは他のアイドルを一本背負いしていきたい」

「写真がない」
鈴木「ツアーの度に千秋楽にスタッフやメンバー総出で集合写真を撮るのが通例だが二つ目の単独ツアーだけ撮影しなかった。明確な理由は今でも不明。タイト・ジーンズを履いたお兄さんが油性マッキーで予定表に線を引いた音が今でも忘れられない。ただ、そのツアーでは前髪を全部上げていた上に、ぽっちゃりしていた時期だったので集合写真がないのを内心ラッキーと思っていた。」

「ギリギリ人生」
岡井「体重が49キロの頃、それが標準だと思っていた(メンバー失笑)」
中島「53キロのときもあったじゃん」
岡井「お客さんには知らない人もいるかもしれないのに…」
矢島+中島「ギリギリじゃないね」
岡井「だからあんな風に(デブに)なった」

「辞めたいと思った時」
萩原「『SHOCK』の頃5人になったり歌割がなかったりでひねくれていた。マネージャーにも辞めることを相談した」
岡井「それに関して萩原を恨んでいる。以前、二人で入浴中『誰にも言っていないけど来年の春に℃-uteを辞める』と打ち明けられた。『千聖は辞めて欲しくない』『でももう決まったことなんだ』という会話。それ以降、あらゆる仕事を『これが舞ちゃんと最後』と噛み締めた。しかし、二人だけの秘密と思っていたが実はメンバー全員が知っていたし、いつの間にかその話がなくなって辞めなかった。私の涙を返して欲しい」

・鈴木「℃-uteは頻繁にマネージャーが変わる。今日は歴代のマネージャー達が観に来てくれている。ファンやスタッフに感謝するるのはもちろんだが、元々℃-uteにいた三人にも感謝している。彼女たちあっての今の℃-ute」
・岡井「昨日も感じたが℃-uteのファンがこれだけいれば自分を応援してくれる人も一人はいるはず。フーしか歌割がないときもあった。今は歌割をたくさんもらえている。11年間つらいことの方が多いと思ってきたがこの舞台に立ってつらい思い出がすべて吹き飛んだ、今日は、オーディションを受けるのを勧めてくれた人も観に来てくれている。昔は家族にも『いつも遊べていいな』と言って生意気な態度を取ってきた」

今日はファミリー席だったんだけど、斜め前のお嬢さんが一人だけ立ち上がって踊り始めてびっくりした。前座は多めに見たけど本番でも立ち上がったのですぐに肩を叩いて「ファミリー席だからさ、座ってもらっていい?」と言ったら「はい…」と素直に従ってくれた。

余韻に浸りながら池袋に戻り、キャッチの多い通りを歩いていると、
「僕らはお店の女の子と連絡先交換したら罰金50万取られるし、話すときもタメ語はダメなんすよ」
「へー、厳しいねえ」
「厳しいすよ」
という会話を、客引きと通行人がしていた。お金がないけど、武道館の成功を祝いたくて一人で池袋「成都草堂」に入った。海賊豚レバー炒めのうまさに感激していたら、厨房から「アオイソラ」という単語がはっきり聞こえてきた。

2013年9月11日(水)

今日がJuice=Juiceのメジャー・デビュー日。サンシャイン噴水広場でイベントをやっていたので覗いてみた。宮崎リーダーが「ファンの皆さんのことをファミリーと呼ばせてください」みたいなことを言っていたんだけど、優先エリアに陣取るじっちゃんたちを見たらたしかにチームよりもファミリーの方がしっくり来た。Juice=Juiceはみんなデビューに感極まっていて、特に高木、宮本、金澤は涙、涙。宮崎、踊りの間違いが何回かあった。苦笑する場面も。戸惑っている感じだった。握手会を上の階から見てると、最初は低速だったのが途中から剥がしが強くなってきて、はじめチョロチョロ中パッパみたいな感じになっていた。参加してみると、速すぎて笑えるレベルだった。しゃべろうと思って息を吸った瞬間に引き剥がされる感じだった。



2014年の7月、私は職に復帰した。もし祖母の葬式が開催されたのがそれ以降であれば、あんな思いをすることはなかった。「お仕事は何をされているのですか?」と聞かれたら普通に答えればよいし、遠回しに探られたら自分から言えばいいのだ。別に言いづらい職に就いているわけではないので、はぐらかす必要はどこにもない。もし今、人生品評会に投げ込まれたとしても、あの頃ほどには消耗しないはずだ。だからといって、あれはもうイヤだ。他人の職を詮索したり、子供や親戚の境遇を自慢げに語り合ったり、比較したり。私の趣味ではない。

宮崎由加さんは、Juice=Juiceの中で唯一ハロプロ研修生の経験がなかった。そのため、グループ結成からしばらくは、下積みがある他メンバーとの技量差が明白だった。メジャー・デビュー前の2013年5月5日に行われた「Juice=Juiceお披露目イベント」で彼女はこう宣言した。「Juice=Juiceはみんなそれぞれ他人の何倍も努力しようと考えていると思います。私はメンバーと同じことをしているようでは追いつけません。みんなが他人の2倍がんばるなら、私は6倍がんばります。そしていつかは追い越したいです。コンサート等のときには、前回と何か違うな等、日々新しい成長した自分を出せるように努力していきます」(出典:同イベントを収録したDVD)。その後、彼女は着実に上達した。今では自信に溢れた歌唱とダンスを披露しているし、グループのリーダーという役割がすっかり板についている。宮崎さん率いるJuice=Juiceは、正気を疑う数のコンサートを全国各地および台湾と香港で行い、2016年11月7日には武道館での公演を大成功に終わらせた。今年は海外7ヶ国での公演が予定されている。

℃-uteにとっても、Juice=Juiceにとっても、日本武道館でコンサートを行うのは夢だった。好きな他人が夢や目標を叶える姿は、美しい。その過程を応援するのは、心底たのしい。それがアイドルという存在を追いかける醍醐味だし、私がHello! Projectに魅かれ続ける大きな理由だ。しかし、いくら入れ込んだところでHello! Projectのメンバーたちは他人なのである。武道館での公演を達成したのは彼女たち(+裏方)であって、私たちファンではない。彼女たち(+裏方)が私たちを巻き込むのに成功したのであって、ファン一人一人が人生の成功を手に入れたわけではない。もちろん、自分の人生の現実を忘れられるほどにHello! Projectはキラキラしている。それは救いである。しかし、救われているだけでいいのか?

Top Yell 2017年3月号のインタビューによると、武道館公演で体力面に課題を感じた宮本佳林さんは、オフの日は必ずジムでパーソナル・トレーナーが組んだメニューで鍛えている。ファイドゥという格闘技系フィットネス、マシーンでのラン、筋トレ。彼女は歌やダンスに対する向上心はもちろんのこと、日頃から食事や美容へのこだわりで知られている。数少ないオフの日にまで徹底しているのである。それを知って、凄いなあで終わるのではなく、私は何かを学ぶべきなのではないか? もちろん宮本さんのストイックさはHello! Projectの中でも特異な部類に入るかもしれないが、彼女を日頃から観て感銘を受けるのであれば、彼女の1%でも私が何かの努力をするべきではないのか? そうしないと、彼女に合わせる顔がないのではないか? ただ映画を観賞するかのように優れた他人の才能と努力による成果物と業績を消費し、対象をとっかえひっかえしながら年数を重ねる。自分がやるべきことから目をつむって、他人のやっていることに関しては雄弁になる。自分がする話の中に、自分が登場人物として現れない。それで他人についてああだこうだ言う。それって私があのときに辟易した人生品評会の参加者たちと何も変わらないのではないか? そうならないためには、小さなことでも目標を定め、近づくための努力を続けるべきではないのか? 自分の課題を明確にして、それを乗り越えるために具体的な行動をとるべきではないのか?