2021年4月25日日曜日

眠れる森のビヨ (2021-04-18)

iPhone SE (2nd generation) からTwitterとマリオ・カートを削除して一週間が経った。よくないことだと前から分かっていた。2010年頃に手にして以来、この文明の利器への依存は進んでいく一方。通信速度の制限なしで利用できるデータ量が引き上げられていく度に歯止めの効かない使い方になっていった。2018年3月に私は“Bored and Brilliant” (Manoush Zomorodi) という本を読んだ。脳は退屈を必要としている。スマ・フォから離れろ。アプリを消せ。頭では理解できたが、行動には移せなかった。Twitterにいつでもアクセス出来ない生活なんて考えられなかった。それに、このブログを見てほしい。私はこうやって一定の分量があるドープな文章を継続的に書いてきた。誰にも真似できねえクラシックを次々にドロップしている。スマート・フォン依存がもたらすとされる創造性や集中力の欠如など微塵も感じさせない。だから大丈夫。自分にそう言い聞かせていた。

私をこの問題に再訪させたのは“The Coddling of the American Mind” (Greg Lukianoff and Jonathan Haidt)。近年の若者(iGeneration、別名Z世代)は鬱や不安障害を抱える率が高く、その主な原因がソーシャル・メディアだというのだ。私はiGenerationには属していないが、他人事と一蹴することは出来ない。近所の書店でたまたま見つけて購入した『デジタル・ミニマリスト』(カル・ニューポート)を読んで、私は決意した。今の私から最も注意と時間を奪っているTwitterとマリオ・カートをiPhoneから消そう。

休みなくデバイスを使っていると、他者と交流しているという錯覚が生まれ、自分は人間関係の維持に充分に力を注いでいる、これ以上何かをする必要はないと勘違いしてしまう(カル・ニューポート、『デジタル・ミニマリスト』)

私は約一年半の無職経験で、自分が働こうが働かまいが世の中は同じように回っていくんだと心の底から理解した。当たり前のことではあるが、大学を出てずっと労働者であり続けた私には気付くことが出来なかった。自分は会社や社会に不可欠なのではないかという驕りがどこかにあった。大きな間違いだった。同じように、私がTwitterに常時張り付いていなくてもタイムラインは回るし、誰も困らない。何事も適正な量や時間がある。それを超えると毒になる。子供の頃にゲームは一日三十分まで、一時間まで、といった制限を課してきた母親は正しかった。

新宿サザン・テラスにあるブール・アンジュさんでレーコーとスコーン。660円くらい。“The Righteous Mind” (Jonathan Haidt) を読みながら約二時間の日光浴。iPhoneにTwitterとマリオ・カートがないだけで読書が各段に捗る。最後の方はカップ底に残ったレーコーがお湯になった。ちょくちょく通行人の英語が耳に入ってくる。中国語率の高い池袋とは雰囲気が異なる。最近はだいぶ行く町もサテンも固定化されていたが、普段とは違う場所に来るのも気分転換になっていいものだ。

新宿にいるということは? そう、私のコアなファンはご察しの通り(記事の題名で分かるが)、演劇女子部を観に来た。BEYOOOOONDSさんの『眠れる森のビヨ』。会場のすぐ近くにある慎といううどん屋さんがリアルだと聞いていたので昼はそこにするつもりだったが列の長さを見て断念。食いモン(それもうどん)に並ぶのは私の趣味ではない。人間は元気に活動をするために食べるわけで、食べる行為のために多くの時間を費やすのは、給油のために長々と自動車を走らせるようなものだ。本末転倒。トンカツ弁当(戦慄MC BATTLE、晋平太さん戦でのチプルソさん)。それにたしか『太田上田』で太田光さんか上田晋也さんのいずれか(上田さんかな?)がおっしゃっていたのだが、飲食店に並ぶという行為には、自分の欲を丸出しにしているという点で風俗店に並ぶような恥ずかしさがある。近辺を歩き回ってよさげなお店を探す。元祖麻婆豆腐さんに入る。豚肉の四川風煮込み定食。950円。極論を言うと飲食店というのは中国人がやっている中華料理店しか信用できない。

スペース・ゼロの舞台空間が持つヴァイブス。何なんだろうね、あれは。アンビエントな音楽が流れる中、この会場の席で開演を待つ時間。数あるHello! Project現場でも最上級の心地よさ。何回も書いているが、私はあの空間が好きだ。今日は席の間引きがなかった。チケット発売時点での開催制限に準拠しているらしい。それでいいんだよ。必要以上にビビるな、権力の意向を汲むな。そもそも黙って観る舞台で席の間隔を空けることに意味はない。私に与えられた席は9列のど真ん中。次々とガタイのいい紳士たちが着席していくのを見て心配したが、運良く私の前は小柄な女性だった。おかげで見晴らしがよく、ストレスなく観劇できた。(余談だが、例のまん防とかいうのを理由にあるヒップホップ行事がキャンセルされたのをTwitterで見て滑稽に感じた。麻薬を取り締まる法律に従わないような界隈なのにまん防とかいう名称からして人を馬鹿にした要請?には従うんだ。コンサートやイベントを強気に開催し続けるアップ・フロントさんの方がよっぽどヒップホップなんじゃないか?)

事前にインターネットに公開された衣装からは多くを期待出来なかった。『アラビヨーンズナイト』から肌の露出を減らした感じだったからだ。ところが実際には劇の大半でメンバーさんたちは学校の制服風の衣装を纏っていた。演劇部の高校生たちが繰り広げる物語。男役はパンツ(下着ではない)、女役はスカート。まず話がどうとか演技がどうとかの前に、これだけ見た目の麗しい少女たちの制服姿を気の向くまま鑑賞できるありがたさ。会場の外で制服少女を双眼鏡で観たら通報されるか、当人たちに撮影されソーシャル・メディアに晒される可能性が高い。出色だったのが岡村美波さん。女役。上着なし。タック・インされたピンクのブラウス。上目の位置で履いているスカート。否が応にも強調される膨らみ。清野桃々姫さんも同じ衣装。この二人は演劇部の一年生の役で、基本的に常に対になっていた。岡村さんの胸部はさておき彼女らは物語の中では周辺的で、さほど見せ場はなかった。

平井美葉さん、島倉りかさん、前田こころさんの三人が物語の軸で、その他のメンバーさんの役柄の重要性は一段、二段下だった。全員の役に確固たる存在理由があるというよりは、先述の岡村・清野ペアのように何人か毎に一つにまとめられていた。平井さん、島倉さん、前田さん以外から一人、二人が欠けたとしてもまあ話は成り立っただろう。意外だったのは、山﨑夢羽さんが何人かにまとめられる側に入っていたことだ。BEYOOOOONDSさんの結成以来、彼女は暗黙のセンターであったように私は思う。周囲もファンも認めざるを得ないような、持って生まれたセンターのヴァイブスがある。ところがこの劇では高瀬くるみさん、里吉うたのさんとの三人組で主役の周辺に収まっていた。昔2ちゃんねるでタカハシステムと揶揄されたような(もちろんプッシュされるメンバーさんの実力を前提とした)事務所の意向が配役に働くものと私は勝手に思っていたが、必ずしもそうではないようだ。

みんなお願い! ウチらを「その他」と呼ばないで!(平井美葉、小林萌花、里吉うたの、“We Need a Name!”)

主にHello! Project研修生からの昇格者で構成されるBEYOOOOONDSさんにおいて平井さん、小林さん、里吉さんの三人だけが外部からオーディションで選ばれた。他のメンバーさんがCHICA#TETSU、雨ノ森川海という小集団に属しているのに対し、名無しの三人組。どこか外様感があった。最近になってようやく与えられた三人の総称もSeasoningS。主役というよりは食材(他のメンバーさん)ありきの、それを盛り立てるスパイス的な名称である。「その他」だった平井さんがダンスが得意な飛び道具としてではなく、主役に抜擢された。彼女がどういう味を出すかがこの劇の見所だったが、見事に期待に応えていた。あの無理のない少年ぽさは、彼女ならでは。小野瑞歩さんが過去にラジオで盟友の前田こころさんについて、ボーイッシュなキャラをつけられがちだけど本当は誰よりも女の子らしい子なんです的なことをおっしゃっていた。平井さんももちろん内面的には少女性をお持ちなのだろうが、醸し出す雰囲気の少年性が魅力的だった。飄々としつつも要所では主役に相応しい熱の入った演技を見せていた。

エンタメというかコメディに振り切った過去作に比べ、割とシリアスな物語だった。物語の核を為す学園生活は平井さんの夢で、現実生活で彼女(彼)はトラックにひかれ五年間の昏睡状態が続いている。現実世界に引き戻そうとする幼なじみの島倉りかさん、夢の中に止めようとする演劇部員たち。板挟みに頭を割かれるような苦しみを覚える平井さん。楽しい夢の中に生き続けるのが幸せなのか、現実の人生に戻るのが幸せなのか。どちらを選ぶのが正解なのか。そんな問いが通底するこの劇を観て、私は少し胸が苦しくなった。なぜなら、夢の中に生き続けるという生き方を選んでここにいるのがまさに我々オタクだからだ。もちろん実際にそういうメッセージが込められているあるかどうかは知る由もないが、オタクたちよ、お前たちの人生はそれでいいのか? と制作陣やメンバーさんに問いかけられているような気がした。

頭の中はお花畑 私はどこにいるのでしょうか?(田村芽実、『ひめ・ごと』より)