2021年11月14日日曜日

"GREASE" (2021-10-31)

サッカー選手を目指したきっかけは、小一のとき休み時間にサッカーをやっていたらサッカー部員の先輩に入部を勧められたこと。横浜F・マリノス公式Podcast「SPEAK OUT!」で和田拓也さんはそう言っていた(VOL.12)。他の選手の回を聴いても、彼らの人生をフットボールの道へと分岐させた理由はちょっとした巡り合わせであることが多い。兄弟がサッカーをやっていたというような生育環境が鍵のように思える。フットボーラーに限らず、我々の職業選択には環境(周囲の人間を含む)が強く影響する。親がやっていた、友達に誘われた、周りにその職を選ぶ人が多かった、等々。

憲法で保障されている職業選択の自由とは、国民の職選びにおいて国家による強制や干渉がないということ。その意味ではたしかに現代日本に職選びの自由は存在する。しかし、個人の自由意志はどこまで介在しているのだろうか? 他の要因に比べると、実は微々たる重みしか持たないのではないだろうか? 人生がどの方向に転ぶかは環境に依るところが大きい。環境は生まれた時点である程度は決まっている。世界のどの地域で、どの親に生まれるか。それは我々に選べない。どの学校に行き、どういう教師に当たり、同じクラスにどういう生徒たちがいるか。私たちは小さな頃から一つ一つを自分で選んできたわけではない。人生の多くは偶然によって決まっている。

偶然とは言い換えると、運である。プロになれる人となれない人の差は何ですか? 先述のPodcast(VOL.15)でそう聞かれた岩田智輝さんは、運と答えた。幼少期から厳しい競争を勝ち抜かないとプロのフットボーラーにはなれない。それだけに、自分が人一倍の努力をしてきたからとか、才能があったからとか、言いたくなるのが普通だ。しかしそれは能力主義に毒された考え方である。実際には才能を持って生まれること、その才能が価値を認められる社会や時代に居合わせること、努力をして報われる環境で育つこと、そういったことも含めて運なのだ。Michael J. Sandelさんの“The Tyranny of Merit”(『実力も運のうち 能力主義は正義か?』)を読め。岩田さんがそこまで考えて言ったのかどうかは分からないが、端的に運と言い切れるのは大したものだな、と私は感心した。

田村芽実さんは天賦の才能に恵まれた表現者である。彼女がスマイレージさんに所属していた頃から私はそう思ってきた。今でもその考えに変わりはない。ステージで歌い、踊り、演じることが天職。今のミュージカル女優という職業にはなるべくしてなった、収まるべきところに収まった感がある。彼女が他の職に従事しているのは想像が難しい。だがその田村さんとて、お母様が劇団を主宰しているという家庭環境がなければ別の世界に入っていたかもしれない。誰かが別の仕事をやっているのを想像するのが難しいのは単にそれを見たことがないからだ。

何かの世界で頭角を現した(もしくは不遇の)人がいるとして、それが才能(もしくはその不足)なのか、環境の影響なのか、完全に区別することは出来ない。片方だけで誰かの境遇が成り立っているなんてことはあり得ないからだ。環境と偶然の産物で始めたことが、自分が選択した道ということになり、いつしかその道以外は考えられなくなる。他のことをやろうにも、どうしたらいいのかが分からない。Hello! Projectを退団しても結局はファンクラブやブログを開設しアイドルもどきのようなことに手を染めていくO氏やN氏のように。賃金労働者の転職に至っては、細分化された業界×職種のマトリックスでぴったり当てはまらないと会社を移るのでさえ簡単ではない。

田村芽実さんがステージにいて、私は客席から彼女を観ている。田村さんも、私も、それぞれの立場を幸せに思っている。けれども、絶対にこうならないといけなかったわけではない。もし生まれ育った時代、地域、家庭環境、色んなことが違っていれば、もしかするとステージにいたのは私で、客席にいたのは田村さんかもしれない。いや、いくら仮定の話とはいえ現実味が薄すぎる。そこまで行くともはやそれは田村芽実さんではないかもしれないし、私ではないかもしれない。(もちろん私には演技の道を志した過去があるわけではない。)いずれにせよ、私がこうやってミュージカル女優として次々に大きな仕事をゲトッてステージで活躍する田村芽実さんをファンとして観られているのはさまざまな偶然が積み重なった結果である。


神田駅前の江戸牛さん(私が最近はまっている焼き肉店)で昼食を摂って、北千住駅前のマルイ11階にあるTHEATRE1010。雨が降っていたが、駅を出てすぐだったので傘をほとんど差さずに済んだ。席が間引かれておらず、両隣に人がいた。今どの県でどの興行で何の規制があるのか分かっていないし、どうでもいい。早く普通に戻せ。8列目の中央付近。田村芽実さんファンクラブ会員のキモい中年男性ゾーンかと思いきや、左は男性出演者の誰かがお目当てとおぼしき女性二人組だった。(間の休憩時間に、そろそろお手洗い行きますか? ○○さんも、一緒に来てくれますか? うん。やった! という連れション交渉をしていた。)13時開演。

私はこの“GREASE”に関しては、物語も登場人物も、そこまで引き込まれるという感じではなかった。だが、耳馴染みのよい曲が多く、若者たちが活き活きとそれらをパフォームする姿からは単純に元気を貰えた。それぞれの出演者がステージで自分を魅せることに対して喜びを感じ、ギラギラしている感じがした。

話の本筋とは関係ないが、メリケンのパーティ文化とか、男がマッチョじゃないといけない感じ、異性とカップルを作れない意気地なし(そういう役が一人いる)に人権がない空気感が伝わってきて、こういう時代・文化で私がやっていくのは無理だな、死ぬなと思った。

田村芽実さんがお肌を露出する場面が多かったのは望外の喜びであった。パジャマ・パーティの場面では脚を付け根付近まで見せてくださった。その次の衣装ではタイトなジーンズでお腹とおへそを見せてくださった。田村さんのおへそ! こんなにガッツリ見せてくださるのはいつ以来だろうか? パッと思い浮かぶのはソロ女優としてのデビュー作『minako-太陽になった歌姫-』だが、さすがにそこまでは遡らないかな。双眼鏡を持って行くべきだった。

投票率が上がれば世の中がよくなるという無邪気な信仰が、私には不可解である。若者がもっと投票しなければ老人に有利な政治が続いていくという主張は、日本人の年齢の中央値が48.4歳という事実の前には空しく響く。高齢者が分厚い国で高齢者を優遇しているのであれば、それは民主制が機能しているのでは。いいか悪いかは別にして。(実際にそれが可能かどうかは別にして)年齢によって1票を2票や3票に数えるくらいのことをしなければ意味がないくらいの年齢分布になっている。私は東京都知事選でマック赤坂さんに投票するような人間である。自分の一票が何かの意味を持つとはまったく思わないが、家に帰ってすぐに投票所に向かい、締め切り間際の19時54分に投票を完了した。