2017年1月13日金曜日

Kaleidoscope (2017-01-08)

1.大久保

これがリアルなやり方なんだと言わんばかりに葉っぱのお皿に乗ったネパール料理を手でかき混ぜて食っていたら、ネパール人の団体がスプーンを使っていて困惑した。「ナングロ」でサマエボウジを食うのはこれで4回目だが、4回ともネパール人の客が手で食うのを見ていない。みんなしてスプーンを使ってやがる。何がリアルで何がフェイクなのか? 自信が揺らぐ。私がリアルで彼らがフェイクなのか? 彼らがリアルで私がフェイクなのか? ネパール料理の作法については彼らがネパール人という時点で圧倒的に有利なのである。手で食べるなんて行儀の悪い食べ方だと仮に向こうがあざ笑ってきたら、こっちは反論のしようがない。私は日本のネパール料理店には何度も行ったことがあるが、ネパールに足を踏み入れたことは一度もない。2010年にインドのデリーで現地民の家にお邪魔してカレーをご馳走になったことがあるが、そのときにインド人が手で食べるのを見た。2008年か2009年に南インドに行ったときにもインド人が葉っぱの皿で提供されるターリーを手で食うのを見た。だからこういうターリー的なフォーマットの料理を手で混ぜて食べるという風習があるのは知っている。ネパール料理店で目の前のネパール人がスプーンで食べていると少し不安になる。それでも自分がリアルだと信じたやり方を貫くのがヒップホップだ。後に入ってきた女性二人組が私の隣に座った。初来店のようだった。サマエボウジを手づかみで口に運ぶ私を凝視はしていなかった彼女たちだが、視界に入って気になっていたのだろう。「混ぜて食べてください」と店員に言われ、運ばれた料理を前に一瞬、固まっていた。「スプーンを使えばいいですよ」という店員の言葉に、ほっとしたような笑いをこぼした。なぜ私がターリー的な料理を手で食べるのがリアルだと信じているかというと、その方がより多くの感覚を用いてその食べ物と向き合えるからだ。もちろん実際に手で直に触れて口に運べる料理は限られている。でも想像してみてほしい。ハンバーガー、サンドウィッチ、ピッツァをナイフとフォークで食べるのを。何かが違わないか? 手に触れる感覚がないと何か味気ないと思わないか? そういうことなんだよ。寿司だって手で食べるのは普通だよね。

2.中野

Kaleidoscope公演の冒頭ではスクリーンに「謹賀新年」の四文字が映し出される。「あれは私が書いたんですよ、知らない人もいると思うので言っておきたい」。序盤にまこととトークを繰り広げるために室田瑞希と一緒にステージに姿を現した竹内朱莉が胸を張った。「知らなかった」というまことは、「見直した」という元の評価があまり高くなさそうなほめ方をした。会場に鳴り響く拍手に合わせて、私も形式的に手を叩いた。まず、謹賀新年的なフレーズ全般をあまりよく思っていない。そして竹内朱莉にそこまで興味がない。ハロコンの客席には贔屓のメンバーやグループ以外の出番では席に座って携帯をいじり出す人も一部にはいる。さすがに私はそんなことはしない。ハロプロのすべての楽曲を聴くし、どのグループにも気になるメンバーはいる。とはいっても、全員と全グループに同じだけの愛情を注いでいるわけではない。序列はある。竹内朱莉よりと室田瑞希であれば、明らかに後者に興味がある。

室田瑞希は露出の多い私服を着ることで有名である(別に私の彼女への興味はそれが理由ではない)。アンジュルムの同僚が言い出したのが始まりだと記憶しているが、今では誰もが知るところとなり、彼女は半ば変態的な扱いを受けている。竹内と室田が出てきたのはいくつかのシャッフル・ユニットがパフォーマンスを披露した後だった。竹内と室田はまだだった。このブログにも書いているようにKaleidoscope公演ではシャッフル・ユニットの衣装を各メンバーが自ら選んで買っている。室田は後のセグメントで披露する自分の衣装に関するエピソードを話した。衣装でジャケットを着ているという室田。「ジャケットの中は普通に服を着てるんですけど」と言って観客の心を一本釣りした。自分の個性と何が求められているかをよく分かった発言である。それでいて、あざとすぎない。「着てなかったらダメでしょ」という竹内の突っ込み。そのときに起きた観客からのフーという歓声は、竹内の上手なお習字への儀礼的な拍手と違い、情熱的であった。室田曰く中に着るはずだった服は海外の業者に注文したが、今(1月8日)でもまだ届いていない。日本の業者にお急ぎ便で頼んだら翌日に届いた。ジャケットは本革で重く、腕が上げづらく、踊りにくいという話であった。黒いTシャツ的な衣服であったが、お腹のあたりは生地があったりなかったりしておへそが見えていた。さすがの選択である。その上に着ていたのは青いライダース・ジャケットだった。(ところで二つ前の記事で岸本ゆめのと浅倉樹々がお腹を出していたと書いたが、他に少なくとも室田瑞希、竹内朱莉、小関舞がお腹を出していた。おへそまで出していたのは岸本、竹内、室田の三人だけだったような気がする。)

一つのグループに他のグループからダメ出しをするセグメントは、標的がカントリー・ガールズだった。私が入らせてもらった3回のKaleidoscopeでは今日の回が抜群に面白かった。
・アンジュルム勝田里奈「アンジュルムにはほめ上手がいない。だから(ほめ上手で知られる)梁川奈々美ちゃんに私をほめてほしい」。「ハードル高いね」と嗣永。「勝田さんのいいところは、お洒落なところとかスタイルがいいところと皆さんは思いがちだが、本当のよさは省エネなところ。二酸化炭素の排出量が少ない。環境によい。アンジュルムの中で一人だけパフォーマンスにダイナミックさが欠けてしまったとしても環境のために省エネを貫く勝田さん」と梁川。モーニング娘。石田亜佑美のこともほめるという流れに。「石田さんの本当にいいところは倹約家なところ。スーパーに入り浸り、値引きのシールが貼られるのを、野生の獣のように待ち続ける。1円でも安くなるまで私はここを動かないという忍耐力、我慢強さ。他には後輩と出かけたときに後輩の財布は後輩の財布、自分の財布は自分の財布というけじめ」。爆笑をかっさらう。
・つばきファクトリー小片リサ「嗣永さんは自分のことをももちと言うがたまに私になっている。統一してほしい」。嗣永桃子「ガチなやつだ…」。小片「はい。直してください」(にっこりと微笑む)。ここで山木梨沙が割り込む。「そんなことはない。ももちだと可愛くて、私だと知的な感じが…」と嗣永をおだて始める。モーニング娘。飯窪春菜が「いつもカントリー・ガールズのこの感じは何なんですか。嗣永塾と言いますか…みんな本心では思っていない」とぶっ込む。すると即座に森戸知沙希が泣き真似を始める。「そんな風に思ってたんですか…ひどーい…飯窪さんのことは信じてたのに…」。
・梁川の見事すぎる一連の「ほめ芸」と森戸の小芝居で会場はめちゃくちゃに盛り上がる。私も笑いすぎて、この辺からは細かい内容があやふやだ。ディスの内容は忘れたがJuice=Juice高木紗友希が船木結に三つの単語を言って、船木が可愛く言う。そのうちの一つが2017年だった気がする。船木が極端なぶりっ子というか何というか、とにかく振り切ったキャラクターを演じていた。何を言うにしても「○○でちゅ」的な。
・誰のどういうディスだったかは忘れたが、山木梨沙がセクシーさを見せる。最後は他メンバーも加勢し、全員であえぎ声を連発して、もうめちゃくちゃになる。
・最後は全員で「以上、カントリー・ガールズでしたー」と締める。芸人集団のようだ。

後に加賀楓と横山玲奈がまことと話すセグメント。まことに先ほどのカントリー・ガールズのセクシーぶりはどうだったかと聞かれ「見ていて、疲れたなあ…って思いました」と返す加賀。「言うねえ、率直に…」とまこと。まことが加賀と横山にモーニング娘。に入ったきっかけと憧れの先輩を聞いた。加賀は“One・Two・Three”ではまっていろいろ観るようになって、11期オーディションを受けた。憧れは鞘師里保。横山玲奈はテレビ番組のドッキリ企画を観たのがきっかけ。寝起きなのにちゃんとパフォーマンスをこなすモーニング娘。を観て自分もああなりたいなと(「寝起きで踊りたいわけじゃないですよ」と補足)思った。憧れは小田さくらと広瀬彩海。

最後の挨拶のまこと。「入った頃には生まれたてのひよこのようだったかなとも。今ではまぶたにキラキラメイクをするようになった。目が行く」

3.大山

「根本的に見方が違うんですかね」―コンサートを観て何を覚えているか、何を覚えていないかについてある人と話した。私のブログを読んでくれている彼は、よくあれだけコンサート中のトークの内容を覚えていられますねと感心していた。彼が言うには普通に考えれば会話というのはストーリーがあるから記憶に残りやすいはずなのに、後になるとそこまで明確に覚えていないらしい。私は細かい言葉遣いまでは無理にしても、大体の流れや概要は比較的、苦労せずに思い出すことが出来る。反面、以前から自分でも気になっていることがある。セットリストを覚えられないのである。トークの内容は後からでも思い出せるが、どの曲をどういう順番でやったかはその場で書き留めでもしないかぎり再現できない。
「それこそ最初の曲と最後の曲とか(しか思い出せない)?」
「そうそう。5曲で3回まわしのイベントとかだったらさすがに覚えられるけど、普通の20曲くらいあるコンサートは無理」
おそらく私のような人間とセットリストを後から淀みなく書き出せる人間とではコンサートの見方が違うのだろうという話になった。その通りなのだろうが、それでは私がまるで音楽は二の次でトークを目当てにコンサート会場に足を運んでいるようである。そんなつもりはない。音楽はしっかり聴いている。にも関わらず発言内容が自ずと頭に残るのに対しセットリストはあえて「思い出そうと」しなければ記憶から引っ張り出せない上に記憶の質が低い。なぜだろうか? はっきりした答えはまだ分からないが、たぶん私の音楽との付き合い方が関係している。私にとって音楽は個々の曲というよりはアルバムである。気に入った曲はこのアルバムの何曲目という認識の仕方をしている。シングルでもなければ題名が分かっていないのが普通だ。私が長年に渡って愛用するiPod shuffleは曲の名前が見えないのでなおさらその傾向が強くなったのかもしれない。つまり、そもそも一つ一つの曲の名前をしっかり覚えて認識する習慣がないのである。

よく覚えていないのはセットリストだけではない。たとえば小野瑞歩はシャッフル・ユニットで『バラライカ』に参加していた。下はピンクのスカート、上は黒いベロアっぽい光沢のある半袖、黒いヒールの靴を履いた彼女の笑顔とコサック風のダンスを、今(1月13日)でも脳内で再生することが出来る。『バラライカ』で小野瑞歩の他に誰がステージにいたのかが記憶にない。何人いたかも分からない。なぜなら小野瑞歩がシャッフル・ユニットで出演しているとき、私は彼女のことだけを見ていたからである。『ギャグ100回分愛してください』は嗣永桃子と、各グループから一人ずつを選抜して披露された。この冬でハロコンからいなくなる(6月に芸能界を引退する)嗣永の餞別企画のようなものだったのでさすがに彼女がいたのは覚えている。残りのメンバーについては宮本佳林以外が簡単には思い出せない。宮本佳林ばかりを見ていたからである。岸本ゆめのがいたような気はする。あ、そうだ譜久村聖もいたか。こうやって後から思い出すという程度だ。万事がこうなのである。つまり私は観させてもらったコンサートのステージで起きていることの全体を俯瞰的に見られているわけではない。見方が偏っているのである。それでいい。むしろそうあるべきだと思っている。なぜなら私は自分が観たいからコンサートを観に行っている。誰かに頼まれているわけではない。書きたいからブログを書いている。誰かに読んでほしいからではない。誰かが知りたいことを調べに行っているわけではない。客観的な報告書を作る必要はない。私はこのブログを可能なかぎり主観的に書きたい。事実をねじ曲げるのとは意味が異なる。ひたすら自分の視点から書きたいのである。