2020年10月25日日曜日

アラビヨーンズナイト (2020-10-09)

陰茎から開演前にメロウ・イエロウ(ビタミン剤を飲むと実際そういう色になる)を放出すべく2階の男性便所に向かうと、入り口にこんな貼り紙があった:

ただいま、男性用トイレの小便器を一つおきでの使用とさせていただいております。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。 こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ

もちろん例のアレの感染拡大防止というのが理由だろうが、尿の飛沫で伝染するとは初耳だ(どうやって?)。それとも、放尿中に利用者が何分間も隣同士で話し込むと思っているのだろうか? もちろん私はスペース・ゼロの小便器を一つおきにしか使えないことで何か困るわけではない。それ自体はどうでもいい。だが、こういう「お願い」を見る度に、これは本当に意味があるのだろうか? 仮に効果があるとして、手間に見合っているのだろうか? いつまで続けるのだろうか? といった疑問が頭を駆けめぐる。どうせ、決める方も従う方も殆ど何も考えちゃいない。一連のコロナ・バカ騒ぎで私は、物事の原理や理由をすっ飛ばして分かりやすい解決策に飛びつく(そしてそれに従わない人々を非難する)という大衆の習性をイヤというほどに見せつけられている。もちろん私も、無知蒙昧な大衆の一員として自己嫌悪に襲われている。

ご理解とご協力をお願いしますという言葉は往々にして、ええから黙って言う通りにしてくれやという意味だ。ルールには従うべき、なぜならルールだから。ルールは正しい、なぜならルールだから。それは戦争中の軍隊ならまだしも、自由な社会に生きる自由な人々の行動倫理とは言いがたい。ルールには確たる根拠があるべきで、根拠に何かの綻びが判明した時点でルールは変更もしくは撤廃しなくてはならない。(フットボールでルールが細かく変更されているように。)

私は昔、立ち読みしていたある歴史書(岡田英弘さんの本だったと思う)にこういうことが書いてあってハッとしたことがある-人々は横暴な支配者と民衆という構図で歴史を描きたがるが、それは間違っている。なぜなら人間には支配されたいという願望があるからだ。これを見落とすと歴史を正しく理解することは出来ない-分かりやすいルールに支配され、行動規範を誰かに決めてもらう。その方が生きるのが楽なんだ。

一連のコロナ・バカ騒ぎで私が痛いほどに感じたのが、学力の重要性だ。最低限の算数や歴史の知識が身に付いていないと、身の回りで起きていることを大局的に理解できない(だから数ヶ月前に購入した『増補改訂版 語りかける中学算数』に手を付けないとね)。ご多分に漏れず私も子供の頃は学校の勉強なんて社会で役に立たないと言って親を困らせたことがある。今なら確信を持って言えるが、勉強をしなかった先に待っているのはテレヴィジョンに踊らされるだけの人生だ。コロナ・バカ騒ぎが恰好の教材だ。

もちろんステージ上のBEYOOOOONDSさんは誰一人としてマスクをせず、飛沫を飛ばし合っていた。というか、人と人が対面して言葉を交わすというのは人類が誕生して今日に至るまでずっとやってきたことであって、飛沫がどうのとかをいちいち意識するのが異常だ。それを新しい日常だとか何とかスタイルだとか言って定着させようとする奴は本物のサイコパス。キチガイ。舞台というのは本来はステージ上がフィクションの非日常だが、このコロナ・バカ騒ぎ下においてはむしろステージ上が正常な世界に見えた。こっち側の、男性便所の小便器は一つおきに使えとかマスクを着けろとかソーシャル・ディスタンスだとか言っている世界がよほど異常。

当初は4月9日(金)が初日で、私が観る予定だったのがその日の公演だった。説明するまでもない理由によって延期された。私は普段、初演にこだわらない。むしろ良席を期待して申し込みが少なそうな平場に申し込む。けど、たまには初演観てみようと思って申し込んでいた。チケットの払い戻しはせず、その日が来るのをひたすら待った。部類の演劇女子部好きなので。10月9日(金)まで約半年待たされたが、中止にならずに開催された。本当に喜ばしいことだ。

演劇女子部の舞台では出演者さんが通路を歩く場面が何度かあるのが通例だが、今回の『アラビヨーンズナイト』ではそれがなかった。すべてがステージ上だけで繰り広げられた。出演者さんが我々と物理的に接近するのを避けるために、そうしたのだろうと思う。正常な世界(ステージ)と異常な世界(客席)の間には壁がある。どれくらいの確率なのか分からないけど(文字通り万一とか、それ以下?)、もし通路で台詞を言うBEYOOOOONDSさんのメンバーさんの飛沫からコヴィッド・ナインティーンをいただければ、そんな光栄なことはないのではないだろうか? BEYOOOOONDSさんのメンバーさんの唾を浴びさせろ。

7月に再開された明治安田生命Jリーグを、私はこれまでに(10月9日時点で)12試合スタジアムで観戦した。バラード形式のハロー・プロジェクトのコンサートは4公演に入った。それで分かったのだが、鑑賞方法が制限されるのはまあ我慢できる。フットボールは大きな声を出せなくても(実際にはゴールのときにみんな出しているが)意外と没頭できる。だが、観るエンターテインメントそのものが変容してしまうと楽しさが大きく減る。ジェイ・ポップ・バラードのハロー・プロジェクト・コンサートは私には苦痛だった。

その点、『アラビヨーンズナイト』は通路にメンバーさんが現れないのを除けばいつも通りのショーで、純粋に面白かった。そもそも声を出して観るものではないから、観客側にもそんなに制約はない。BEYOOOOONDSさんがつくづく恵まれているなと思うのは、一人一人を活かすためにしっかりと大人がプロデュースしている点だ。前提としてメンバーさんの魅力と努力がある。つまり彼女たちがはっきりした特技や個性を持ち、それを日頃から発信している。集団の採用や編成も含めて大人がちゃんと働いている。里吉うたのさんと平井美葉さんが二人でダンスを披露する場面があったり、清野桃々姫さんにラップ調の台詞があったりと、それぞれのメンバーさんが特徴を発揮しやすい内容になっている。

話の内容としては、現代に生きていた西田汐里さんと山﨑夢羽さんが別時代に飛ばされる。王様を満足させる物語を作れば元の世界に戻れる、失敗すると石にされてしまう。西田汐里さんが物語の生成に苦心する過程で、大事なことを学ぶ。物語はお客さんへのラヴ・レター。感動させるには受け手自身について書く。自分を重ねられる話を。

里吉うたのさんが劇を通して二の腕を露出した衣装でワキをたくさん見せてくださったので、好きになった。小林萌花さんがおへそを見せてくださるのも見所だった。あとは、島倉りかさんのお顔。単純に造形的に眼福であったのと、コメディックな場面での顔芸が面白かった。

私がいただいた席は、6列目の右端だった。一度、高瀬くるみさんがステージで横になる場面があった。角度的に私の席からちょうど長いスカートの中が見える位置だった。私の前にいたTKタケオ・キクチ的な柄の入ったデニム・パンツと長袖Tシャツを着用した紳士がおもむろに双眼鏡を取り出し、その部分を観察していた。瞬間を逃さないその姿勢は、正しい。圧倒的に正しい。(ちなみに、何かが見えたわけではない。)

視界が偏っていたのでもう一度、真ん中付近で観たいなと思った。けど、また観たいと思えるくらいでやめておくのがちょうどよいのだろう。7,800円するんだぞチケットは。軽い気持ちで買い足せる身分じゃねえんだお前は。収入が減ってるんだろ? 身の程をわきまえろ。