2021年10月23日土曜日

ジェイミー (2021-08-14)

罹ったこともねえ癖によくもまあ一年半以上コロナコロナ言い続けられるよな。世の中のほぼ全員がコロナに強い関心を持っている。この状態が異常。いくら対立しようが同じ土俵。頭をコントロールされている。感染者数、感染者数って言うけどその感染者たちはその後どうなったんですかっていう話。みんな死んだの? 感染したことがないつもりのあなただって検査を受けていたら鼻腔や唾液からヴァイラスが検出された可能性はある。メディアが遊び半分で蔓延させたコロナ恐怖症がなければ、風邪をひいたで殆どの人は終わっていた。少なくとも日本では。コンサートやサッカーの試合で好きに声が出せていた。アイドルさんの握手会も続いていた。我々は物事を自分で体験せずに他人の作った文字や映像で知ったつもりになることに慣れすぎている。インターネットが便利になり過ぎて、遠く離れた異国で起きていることと身の回りで起きていることの区別がつかなくなっている。ことコロナに関しては、それらの弊害が社会や文化に甚大な被害をもたらしている。

せめて感染してからモノを言え。私のように。そう、私は唾液PCR検査でコヴィッド・ナインティーンの陽性認定を受けた。自分の身体でこのヴァイラスと付き合い、どういうものかを感じた。当事者として。インターネットで聞きかじった情報を元に稲川淳二さんの怪談のようにおどろおどろしく後遺症を語る奴らとは違う。この期に及んでコロナを素朴に恐れ続けるのは精神の病気だろう。煽りでも何でもなく信頼できる心療内科に通って適切な治療を受ければ楽になれるかもしれない。Twitterは精神病との相性がよすぎる。ストリートでは誰しもがマスクを着けているが雰囲気はTwitterより大らかだ。いくら従順な馬鹿でもみんな肌感覚で何となくは気付いている。コロナが大したものではないって。生きていく上では生活実感、肌感覚ってのが重要なんだ。

池袋の東急ハンズ(10月いっぱいで閉店する)の近くにあるブリリア・ホールで、ミュージカル『ジェイミー』を観劇した。後から振り返ると私はこのとき既にコロナ感染者だった可能性が高い。体調はまあ、ちょっと風邪っぽいかなというくらい。やや身体が火照るなという感覚はあったが、正確に体温が何度だったかは分からない。私には体温を測るという習慣がないため、自分の平熱も知らない。興味もない。体温が何度だろうと労働の責務からは免除されない。休んだら後からその分を取り戻さないといけない。劇場に入るときの検温では引っかからなかった。近所のクリニックで唾液PCR検査を受けたのが8月16日(月)。結果を私が知らされたのは8月18日(水)。クリニックで症状を説明したときでさえ、コロナの可能性は低いと医師は言っていた。8月14日(土)にコロナ感染を自覚する術はなかった。何せ、風邪っぽいという以外の何でもなかったからだ。コロナはただの風邪という標語は「ただの」の部分でバイアスがかかってしまうが、実際に風邪なのだろう。私はそれを自分の身体で理解した。

もちろん高齢者を中心にコロナ感染が生命にかかわる場合もあるのだろう。でも彼らの延命のためにそれ以外のすべての人々が我慢を強いられ、失業や収入源に苦しみ、鬱になり、自殺する社会はディストピアだ。糖尿病が恐いからといって世の中のありとあらゆる飲食店に糖尿病患者専用のメニューだけ提供させるようなモン。国全体が入院病棟のようになって、行動や経済活動を細かく管理される。それが日本という国の死に方なのかもしれない。

コロナが落ち着くなんてことはなくて、あるとすればコロナに対する人々の反応が落ち着くということしかあり得ない。知らないだけでコロナと同等もしくはそれ以上に健康や生命を脅かす要因はたくさんあるし、どれにどれだけ注意を払うかというだけの話。副島隆彦さんが『日本は戦争に連れてゆかれる 狂人日記2020』で書いていたように、コロナをいつまでも恐れてマスクだの人との距離だの県外移動だのワクチンだのを神経質に気にし続ける人たちは、震災から何年経っても福島の農作物が、放射線が、なぞと強迫的に騒ぎ立てる人たちと同じ分類のヤバい人たちとしていずれ無視されることになる。その日が早く来てほしい。

この日は私にとって誕生日の二日前だった。『ジェイミー』のファンクラブ先行受付が始まったとき、誕生日の付近に入りたいなと思ってこの日に申し込んだ。まあ、歳をとるってことはだいぶ前からめでたくはなくなっているし、特に祝いたいわけでもないのだが、どうせなら気分が高揚するような予定を入れておきたい。そういう気持ちがあった。

田村芽実さんがソロ女優として出演される舞台を、私は一度ずつしか観ていない。チケットは安くない。一万数千円する。Hello! Projectと横浜F・マリノスの出費もある。それに舞台において田村さんはあくまで登場人物の一人。ずっと彼女だけを観られるわけではない。だから一回だけに抑えている。チケットが高額なだけあってどの劇も出演者、衣装、演出等々すべてに抜かりがなく一流。いいものを観られてよかったという満足感を得て、それで完結していた。経済的な理由で我慢しているというよりは、一回で満足していた。今回の『ジェイミー』に関してはちょっと違った。翌日も心地の良い余韻が残った。観に来てよかった、もう一回観たい、と心から思った。田村さんが演じたのは主人公の親友という比較的いい役ではあったが、それよりも劇全体として、とても気に入った。結局、二度目の観劇は実現しなかったが、もしBlu-rayが出るなら買いたいなとは思う。

物語としては、高校のクラスで、これから進路を決めないといけない生徒たち。君たちはスターにはなれない、現実的な職を選べと言う教師。ドラック・クイーンになるという夢を密かに抱く主人公。教師、同級生、社会の多数派による圧力やいじめに傷つきながらも、なりたい自分になるためにもがいていく。という感じ。登場人物の一人一人が本当に魅力的だった。もちろん役の重要度によって描かれ方に濃淡はあるのだが、基本的に全員が濃い。それぞれに人生があって、人間味があった。どの登場人物にも、どこかしら入り込める要素があるというか。主人公の青年がチャーミングで、これ以上ないほどの適役だった。徐々にドラック・クイーンとして自信をつけていき、クラスの中でも立ち振る舞いが変わっていく、その様を表現する演技が見事だった。観ているこっちも応援したくなる感じ。私はドラック・クイーンのことをHubert Selby Jr.さんの小説などで文字としては認識していたけど、この劇で映像として認識出来たのは今後の読書に役立つはず。主人公と対を成す存在として、事ある毎に主人公をなじるいじめっ子の存在も欠かせなかった。横浜F・マリノスの仲川輝人さんに似た、実際に不良経験がありそうな紳士。2019年明治安田生命J1リーグ第33節の川崎フロンターレ戦で長谷川竜也さんに後ろから削られてガンを飛ばして詰め寄る仲川さんのような感じの威圧感と不機嫌さを常に放っていた。田村芽実さんは理解者として主人公に寄り添う内気な処女。(イスラム系の役のため肌の露出がほとんどなかったのは遺憾だが、今回に関してはミュージカル自体の魅力がそれを上回っていた。)

私は観劇前に本家米国のサウンドトラックを何度か聴いていた。今は便利なものでSpotifyに大体ある。劇中、どこかで聴いたことのある曲だな、というのがあって、咄嗟に思い出せなかったが、サウンドトラックに収録されている曲だった。音楽がいいというのも私が『ジェイミー』好きになった理由の一つだ。

学校という閉鎖された空間に特有のヒリヒリした人間関係やクラス内階級が痛いほど伝わってきたが、笑える場面も多く、とにかく全員のキャラクターが濃く、全体としてはポジティブで、爽やかで、楽しいミュージカルだった。いわゆるdiversityとかinclusionの話だと私は感じた(もっと広義にはsocial justice)。ただそのinclusionが、結局は権威(先生)に認められる形でしか達成できないというのに、私としては何となく後味の悪さを覚えた。(当初はドラック・クイーンとして新しい自分になった主人公がその仮装で学校のパーティに参加することを教師に拒絶されるが、最終的には教師が折れて参加を認められる。)多文化主義にしてもそうだが、いわゆる現代でリベラルという立場を取る人たちの目指すところは個人の自由ではない。マイノリティとされるさまざまな集団的属性を定義し、彼らへの資源配分を公共政策に反映させることだ。そのためには上から「認めて」「配分する」権威の存在が欠かせない。